ピエロット
不必要に整頓された部屋の中は妙に息苦しかった。 どうしようもない破壊衝動に駆られて、思い切り本棚を突き倒す。――バン!バン!がらがらと分厚い聖書やら著書が崩れ落ちていくのを呆然と見ていた。 動きがスローモーションで、何をするにもやる気が起きない。これでは相部屋の師にも怒声を飛ばされるだろう、それを想像して妙に笑ってしまった。 右目を覆う黒い布は、一切の光を通さない。ものを映し出さない。透過させない。唯一見える左の視界には、大きく開かれた窓だけが映っていた。「――う」呟いて、よろよろと窓まで歩いていく。強い日の光に、眩暈がした。 「…俺は、ラビ」 囁いて、外を見る。晴れやかな天候だ。どこからかアクマの砲弾が飛んでくるかもしれない、そんな不安に駆られながらもラビは外を見続ける。体のどこかがひどく痛んでいた。この痛みは何なのだろうと考えて無意識に心臓を押さえる。 「、違う、ここじゃない」 息を詰めながら独り言。押さえた場所はラビの本能からして間違いではなかった。実質的にも間違いではなかった。 ただ、ゆるい痛覚がどこが痛いのかを押し隠すようにしてラビの認識を邪魔していただけ。 『…ラビ』 声が聞こえた気がして振り返る。ドアは開いてはおろか、開く気配すらしなかった。ましてや、外に人がいる気配も。 いるはずがない、いるはずなど。ここには誰もいない。いてはならない。ラビは感情を押し殺す。まるで呪文のように、例えば、いじめられた子供がヒーローの名前をうわごとのように呟くように。言う。「俺は、ブックマン後継者。ラビ。ラビ。俺は、」喉が渇いてうまく喋れなかった。 どうしてか、やはり心臓が痛んだ――気がした。ラビは聡い。しかし、聡いからといって全てのものを理解できているわけではない。体の中の不調など、自分自身ではひとつかみも掴めないのだ。 ただ、目に浮かぶのはあの子のことだけ。白い髪の毛に白い肌、薄く浮かび上がる呪いの刻印に悲しみの浮かぶ銀灰色。 「…アレン」 呟いた。あの子に届くはずがないとわかっていたから、声は少しだけ大きかった。 (10分前) ラビはぱちくりと瞬きした。部屋の前に座っている子供はどう見ても、同じエクソシストの新米。白い髪の毛に住み込むように、黄色いゴーレムが落ち着いていた。 「…何してるんさ?」 「あ、ラビ。なんでもないです」 人の部屋まで来てあまつさえドアの前陣取ってなんでもないって言うのは無いと思うんだけど。そう喉まで出かかった言葉をラビはなんとか呑み込んだ。 「とりあえず、中入るさ。そこ冷えるぞ」 「どうも」 まるで中に入れてもらうのを当たり前だと思っていたように、アレンは立ち上がってラビを素通りして部屋の中に入り込む。いつにない傍若無人な振る舞いにラビはなんだか違和感を感じた。 椅子に座ろうとするアレンの手首を掴んで、こちらを向かせる。アレンはそれすらも予想していたように素直にこちらを向いた。綺麗な瞳が射抜くように、ラビの左目を見つめる。 眼帯越しに右目をも見られているようで、ラビは内心落ち着かなかった。 「…アレン?」 「はい?」 透き通るような声で返事が返る。薄く開いた唇に、ふいにキスをした。また、予想していたような顔でアレンは目も閉じずキスを甘受する。2秒も経たぬうちに離れた唇には、温度さえ残っていなかった。 いたずら心だとか、つい、とかそんなものではない。確かにラビはキスをした。けれど、どうしてだろう、アレンのこの冷静さは。いつもは軽く、本当に軽く触れただけでも茹蛸のように顔を変色させて逃げるのに。逃げる様子は微塵も無く、また、腕を振り払われることもなかった。 「…アレン、どうしたんさ。今日はなんか、変」 「………」 無言のアレンに、ラビはさらに違和感を感じた。まるでアレンの皮をかぶったアクマを相手にしているようで、心の中は落ち着かず気持ちが悪い。だが、確かにラビが手首を握っているのはアレンで、そしてキスをしたのもアレンだった。 「大丈夫さ?調子悪い?」 伺うように目を見つめれば、アレンはゆるゆると首を横に振った。まともな反応に少しだけほっとしながら、しかしラビは目つきを緩めない。 「どうしたんさ。俺、なんかし―――「ラビ」 言いかけた言葉を遮って、アレンが呟いた。透明な瞳にはラビが映っている。それを直に見てしまって、ラビはアレンの瞳から目をそらした。 「僕のこと、好きですか?」 だがアレンはまっすぐな瞳をそらしもせず、そう言った。その問いかけにラビは一瞬固まる。そんなこと、今まで一度も聞かれたことが無かったからだ。理由は言わずもがな、ラビの積極的アプローチがあったから。 ラビは間髪入れずに当たり前、と応えようとする。しかし、そう言おうとした口は薄く開いたままで固まった。途端に背中に冷や汗が流れてくる。アレンはやっぱり、予想したような顔で。 「質問を変えます。――あなたは、僕を信頼していますか?」 ラビは応えに詰まって、口を閉じた。 『まるで硝子玉のようだ』 『本当に心を開いているわけでもないのに――』 それが合図だったかのように、アレンはラビに張り手をかまして部屋から出た。 (そして現在) 部屋の中には誰の温度も残らない。 ラビは呆然と、窓を閉めた。雨が降り始めたのを感知したからだ。雨粒が手の甲に零れ、妙な温度を感じさせる。ちくしょう、と無意識に呟いた。 数ヶ月前の、あのダグとの出来事が頭から離れない。アレンは全てを悟った瞳で、何もかも理解できた瞳でこちらを見ていた。――あの綺麗な瞳で。 どこまで見透かされたんだろうな、と自嘲して、ラビは眼帯を取る。視界は真っ暗だった。 |