靴が地面をすれる音に、不快感。
何故なのかわからなかった。沖田は呆然と、靴を見る。
真っ黒な靴だ。いや、靴だけではない。服も真っ黒だ。
―――心でさえも。
今こうして、新八と分かれて屯所までの帰り道を歩いている自分。
真っ黒だ、心が。
先ほど新八と話している時は、純粋に楽しかった。考えていることも正常で、そう、何もかも正常だった。
それが、どうしたのだろう。
新八がいなくなった瞬間、強烈な寂しさを感じた。
「――――ッ?」
吃驚して、自分の体を抱きすくめるようにする。
寒くは無い、暑い気候なのに肌が薄ら寒くてぴりぴりしていた。
新八は無事に帰れただろうか、と考えを変える。
大丈夫だろう。きっと万事屋の旦那が…。
そこまで考えて、ぴきり、とどこかがきしむ。
(ああ…)
汚い、黒い感情だ。
醜い、なんてことは無い人間には当たり前にある感情。
何故これを先に自覚してしまうのか、沖田には不思議でならなかった。
(やべェ、刀が、手に、いや、手が、刀に、)
頭が混乱している。
混乱しているというより、神経が遮断されていると言うほうが正しいか。
かたかたと震える手が、無意識に腰の刀へと伸びる。
鯉口を切りかけたところで、声が聞こえた。
「沖田隊長!」
びくり、と震えて手を離す。
「…何だィ」
顔をうつむかせてなるべく見えないようにそう呟くと、恐らく違う隊の人間だろう、手短に用件を伝えて帰っていった。
その後姿が見えなくなってから、安心して沖田は息を吐く。
誰かを切りたくて切りたくてしょうがなかった。刀に伸びていた手を握り締め、握り締めすぎて血がぽたりと垂れた。
『副長がお呼びです』
短かった。
たったそれだけのために、あの人間は使わされたのか。
くっと笑ってしまった。
その笑い方は新八に向けるような純粋な笑みではなく、重く暗い、暗鬼のような笑い方だった。
用事を済ませ、部屋に篭っていた時だった。
眠れなかった。寝ようとあのアイマスク(これをつけると土方はひどく怒る)をつけても、眠れない。
寧ろあのぴりぴりした感覚が全身を這っているようで、気持ち悪かった。
(あーあ)
その気配にいち早く気付いた土方に刀は取られるし。
こんなときに勘が働くなんて嫌なもんだ。そう毒づいても、土方は怒らなかった。
瞳孔は相変わらず開き気味だが、今日はいつものように全開ではなかった。
(何だってんだ、全く)
それは沖田が目に見えるほど苛立っているからだ、というのを土方は言わずにいた。
(…)
心の中に浮かぶのは新八、その人。
漸くわかったのだ。自分はあの人間に興味を持っている。その興味は、恋心であると。
気付いた瞬間、自分の全てが汚く見えた。
あの綺麗な『少女』に、自分が近づけば汚してしまうと。けれど、他の誰にも渡したくはないと。
(特に、あの銀髪の旦那には)
わかっている。
きっとあの男も自分と同じく、新八に興味を持っている人間の一人だ。
きっと男でも女でも関係ない。新八という人間そのものを、縛り付けているような。
(汚い人間だなァ…、俺もあの旦那も)
ククッ、喉の奥で笑う。
そうすると、考えはどんどん暗く重く変化していく。
前々から隠していた思いが、今心の中を大きく占領していた。
(そうだ、わかってる)
(アイツを俺のものにしたいなら、いい方法がひとつ)
孕ませて、傍に置けばいいのだ。
(なんて汚い人間)
一番手っ取り早い、と笑う。
「はは、ははっ」
聞こえない程度の声で笑うが、その笑いは誰が聞いても狂気に満ちている。
健全な笑いではなかった。
(ああ、なんて、汚い)
そのとき、ふっと障子越しに人の影が見えた。
それに反応し、上半身だけを起こす。そして、刀は取られて無いので、木刀を取り出した。
誰だ、と問いかける前に、声が響いた。
「―――総悟、客だ」
客なんて久しい。
こんな自分に客がいるものだろうか、と考えてみるが、やはりいない。
自分を呼んだ土方は、「敵じゃねぇから木刀も置いてけ」と言ったきりどこかへいってしまった。
敵ではない?土方がそういうのも珍しい。見たことの無い人間だったら少なくとも木刀は持たせるはずだ。
それで、少し合点がいった。しかしそれは沖田の中で否定される。
そんなはずは。来てくれるはずは無い。こんな時間に。
しかし期待に胸は膨れる。
ゆっくりと玄関まで歩くと、門の隅に隊士と一緒に立っている人物を見つけた。
来てくれるはずは、
(来てくれ、た?)
「新八!」
駆けつける。
見慣れた姿を見てほっとしたのか、新八は笑みを浮かべた。
しかしその笑顔が妙に貼り付けたようなものだと気付き、沖田は眉を寄せる。
――――先ほどの黒い感情なんて、きれいさっぱりなくなっていた。
「―――で、どしたんだィ」
屯所を出て門の外で2人は話をしていた。
普通、この時間帯ならばあまり人は通らない。通ったとしてもそこまで怪しくは見られないだろう。
新八は話をする前に「夜分遅くすいません」と謝った。
「…ばれちゃいました」
「!」
その一言で全てが理解できた。
まさかこんなに早くばれてしまうとは。呆気に取られた沖田に、新八が苦笑する。
「やっぱり…、怒られちゃいましたね…」
女のくせに今まであんなあぶないことしてたのかお前!って。
その苦笑が痛々しくてたまらない。
沖田は静かに新八の頭を撫でた。その話し振りから、何故ここに来たのかが容易に想像できる。
「喧嘩して来たのかィ」
「ええ、まあ…」
覚悟はしてたんですけど、と新八は視線をそらす。
よく見れば手首が赤く腫れていた。つかまれたのだろう。掴んだ相手などもう理解している。
痛ェか?と問いかけて手首を静かに握ると、いえ、もう、と控えめな呟きが返ってきた。
「沖田さんの手は冷たいですね」
気持ちいいです、と笑う新八に、沖田は少し力を強めた。
「…で、旦那はなんて?」
新八は痛いですよ、と笑ってやんわりと沖田の手を離す。
暖かなぬくもりが離れて、少し肌寒かった。
「お前はもう、ここをやめろ、」
こんなところより、もっといいところがある。
わざわざこんな実入りの無い、危ないところにいる必要は無ぇ。
「――ですって」
『何でですか、どうして僕がやめなくちゃいけないんですか!!?危ないことだっていうのは承知してます、ここにいたいんです!』
『どうしても糞もねぇ、お前はもうここに来るな!!』
――あんな言い方、前にもあった。
人を守るために、人を傷つけるのだ。知っているのに、つらかった。
気がつけば思い切り飛び出していて、帰ってきた神楽に何も言わず走り出していた。
引き止める声が聞こえたけれど、聞かないフリをした。
気がつけば、ここ――屯所にいたのだ。
「…すいません。何か、愚痴っちゃって」
新八は笑う。
既にその笑顔は笑いではないというのを理解していながら。
沖田は無表情に、心の中では烈火のごとく怒り狂って、しかし表面にはおくびにも出さずに、
やさしく、呟いた。
「そんなん気にしてる暇があれば、泣きな」
瞬間、新八の頭を引っ張って胸に抱え込む。
華奢な体はたやすく沖田に抱え込まれ、そして暗闇とぬくもりで包み込まれる。
「っ…、ぅ…」
静かに涙を流す新八を見て、沖田は無言で虚空を睨み続けた。
「…銀ちゃん、何でアルか?」
「あ?何が」
「どうして、新八追い出すか」
「そんなん俺の勝手だろ」
あいつには、俺らみたいな野蛮な世界は似合わねー。
ばさり。呼んでいたジャンプを放り投げて、どかっとソファに沈み込む。
「…それが、銀ちゃんの守り方アルか…」
―――わかったアル、もういいネ。
ぱたりと、ドアが閉まった。
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