沖田が土方の前に現れたのはつい先刻。
お前今までどこ行ってたんだサボりかと声を荒げようとしたとき、珍しく沖田が焦っていたのを見咎めて口を閉じた。
見れば、いつのまにか万事屋の銀髪の男。そして腕にはぐったりとした新八が。
「おい…!」
「事情は後で説明しやす、土方さん、早く医者を!」
声を荒げた沖田に、土方はわかった、と頷くしかなかった。
よく見れば出血している新八に不安を抱えながら、屯所内を走る。かかりつけの医者を呼んだ。
この前新八が風邪だった時に、タイミング悪く体調を崩していた医者だ。
新八は沖田の部屋に運ばれた。客室は運悪く違う人間がいたものだから、ここしかなかった。
運良く処置が早かったので、大きな怪我には至らなかった。それを聞いた瞬間の、神楽のあの嬉しそうな顔。
沖田も銀時も複雑な顔をしていた。傷つけた本人の銀時は特に。
はあ、と息を吐いて、土方は視線を自分の手に戻す。煙草を取り出し、火をつけた。
「まあ、1週間ほど安静にしていれば大丈夫でしょう。痕はもしかしたら残るかもしれないけど…」
女の子なのに可哀想にねぇ。
そう医者がのたもうた言葉が、誰かの胸にぐさりと突き刺さったのは周知の事実だ。
神楽は安心してすぐに新八の顔を見たいと思ったが、それよりしなければならないことがあった。
銀時の監視。
もう駄目なのだ。もう、何かが外れてしまっていた。
少し距離を置くべきだったのだ。それなのに、自分が起こしてしまった行動が引き金となってしまった。
反省はした。廊下に佇む銀髪を見ながら、神楽は息を吐く。
今部屋の中にいる沖田は何をやっているのだろう。一人、何を言ってもその場から動かなかった。
泣いているのだろうか。気持ち悪い、見たくないと思い、神楽は酢昆布をかじった。
庭で蝶々を追いかけている定春を見ながら、土方も息を吐いたのを視界の端にとらえた。
閉ざされた空間の中で、沖田は顔を伏せていた。
肩を半ば抉られた新八はうつぶせになって寝転がっている。
右肩から背中にかけて打ち付けられたのだ。医者が手当てをする際、見てしまった。
ひどいものだった。
白い肌は青く腫れて、肩はやや切れていて。
もしかしたら痕が残るかもしれない、と言われた時、とてつもない罪悪感を感じた。
自分のせいで、と思わずにはいられなかった。
左手が布団からはみ出ていた。それを握る。僅かなぬくもりが、この焦燥を溶かしていく。
新八、と声をかけても、目は覚めなくて。
沖田の座る方向へ向けられた顔。その寝顔は安らかで、夢見が悪そうにないのは救いだ。
手を伸ばして頬に触れる。撫でると、手触りのいい肌に少しかさついた感触が残っていた。
(涙…)
あの時の涙だ。
乾いて、かさついてしまったのだろう。
指で取り払うように拭うと、ん、と少し篭った声が聞こえた。
起こすのは忍びない。しかしここから離れたくもなかった。
手を離すと、そろりと顔を覗き込む。
あの、一生懸命自分を庇ってくれたこの小さな体が、愛しくてたまらなかった。
気配を殺して新八の髪をなで、そこに口付ける。
まさか自分がこんな感情を抱くことになるなんて、全く思っていなかった。
一瞬香った甘い香りに、頭がくらくらした。抱きしめたい。その傷ごと抱きしめて、思い切り泣いてしまいたかった。
涙など、いつ枯らしたかも覚えていないのに。
神楽は立ち上がった。
それに反応した土方が、無表情にこちらを見ている。
何をする気だ、と視線が物語っていた。勿論決まっている。
「銀ちゃん、帰るネ」
「…あ?」
いまいち覇気の無い返事に、神楽ははあ、と息を吐いた。
土方は全て察したらしい。もう関係ないと言わんばかりに煙草を取り出した。
動こうとしない銀時を強引に引っ張る。そして投げるように定春の背中に乗せた。「行くヨロシ!」と叫ぶと、定春が勢いよく走り出す。
「ちょちょちょっとオォォォ!」
驚いて叫んだ銀時だったが、振り返った定春が唾液で光る犬歯をちらりと見せたので静かになる。
それを見送った後、神楽は土方を見た。
「何だよ」
神楽は無表情に、「世話になったな」と言った。
全くその顔は世話になったと礼を言っている顔ではない。
一瞬瞳孔が開きかけたが、まあいいと思ってああ、と頷く。
すぐに背を向けるもの、と思っていたが、暫く神楽は動かなかった。
「…何なんだ?」
「…お願いがあるネ」
ほとんど話した事も無いこの少女に、お願いだなんて事を頼まれるとは。
呆気に取られた土方だったが、煙草を持ったままなんだ、と返す。
「暫く…新八を保護してほしいアル」
「保護、だと?」
言われなくても、新八自身が望まないのならば無理に帰すつもりは無かった。
そんな状態で引っ張っても可哀想なだけだ。
「それと、もし銀ちゃんがここに性懲りもなく来たら、問答無用で追い返してほしいアル」
「おい、乱闘になるぞ」
目に見えるようだ。
土方が呆れて息を吐くと、煙がふぅ、と長く重く流れた。
それが気に食わなかったのか神楽は一歩後退る。確かに子供の前で煙草を吸うのはいけないことだ。
落として足でねじり消すと、満足したように再び元の位置に戻った。
「乱闘になる前に、私に連絡を入れてくれればヨロシ。銀ちゃんを止める役、新八が駄目な今私しかいないネ」
かしゃこん、と傘を構えた。
その先にある土方の表情は変わらない。
それが人に物を頼む態度か、と言いたい所はたくさんあったが仕方ない。
「…いいぜ」
そう言うと、神楽は心底嬉しそうに微笑んだ。
少し日が暮れたかもしれない。
何だか時間のめぐりがやけに早く感じた。
(情けねェ)
くそ、と言わんばかりに手をぎゅうっと握り締めると、ぷつりと肌の裂ける音がした。
(あーあ)
爪で手が切れてしまったようだ。
自分は物の加減というものを知らない。大丈夫だと思ったことはなるべく最大限でやろうとしているので、こういったこともしばしばだ。
何か拭くものが無いかと探していると、不意に小さな声が耳に届く。
「ん…」
「新八?」
薄ら開いた目が、うろうろとさまよって沖田を映す。そしてその目がさらに見開いた。
「大丈夫ですか!――ッ痛!」
「おい、起き上がるんじゃねェや、傷が…」
勢いだけで起き上がった新八が、痛みに眉を寄せて倒れこむ。
それを支えて、沖田は心底呆れた顔をした。
「あの…、怪我してませんか」
「あ?」
呆気に取られる沖田は、僅かに首を振った。あの戦いで少し打撲はしたが、なんてことは無い。
それに安心したのか、新八は息を吐いた。そして開いたままの沖田の手のひらを見て、え、と呟いた。
「血が、出てるじゃないですか…」
これはさっきのだ。
あの乱闘で負った傷なら、もうとっくのとうに乾いているはず。それに気付いたのか気付いていないのか、新八は顔をゆがめた。
痛いはずなのに、無理に手を伸ばして沖田の手を持つ。そして熱を冷ますために肩においてあったタオルで血を拭った。
「新八…」
「はい?」
何でお前はこんなに馬鹿で、何故、こんな風に自分に笑いかける?
沖田は不思議でしょうがなかった。だから声をかけたが、その先に言うべき言葉が見つからない。
暫く黙っていたが、ふと思いついた言葉が勝手に口から飛び出た。
「すまねェ」
新八は目を軽く見開く。
しかし、何がですか?と心底不思議そうな顔をして、笑った。
「沖田さん」
名前を呼びながらゆっくり、上半身だけ起き上がる。
そして、沖田の頬へ手を添えた。
「泣かないで」
「…?」
泣いている?誰が?そう不思議に思って、新八の大きな瞳を見つめる。
自分が映っていた。いつもと変わらない、しかし目からこぼれる透明な水が、いつもと少し違う。
泣いているなんて自覚していなかった。こんな風に泣いたことなどなかった。
静かに、ゆっくり流れる涙を新八は丁寧に拭う。
普通ここでは礼を言うべきなのだろうが、沖田がこぼした言葉はあまりにも関係のない言葉だった。
「…目、見えんのかィ…?」
眼鏡がないのに。
一瞬きょとんと目を瞬かせた新八は、
「あれは、顔を少しでも隠すためのただの飾りです。目はこれでもいいんですよ」
だから、貴方の涙が見えます。そう言った。
沖田は涙を拭い続ける新八の手を握ると、優しく今までに見たこともない慎重さで、ゆっくり体を抱き寄せた。
傷が痛まないように。そして、甘えるように。
「おきた、さん…?」
呆然とした声が返ってくる。
沖田は新八の髪の毛を撫でながら、また一粒涙をこぼした。
なんて綺麗な涙だろう。こんな涙、見たことすらない。
|