久し振りと思えるほど時間を重ねたわけでもない、それどころか、またか、と思わずにはいられないほど記憶の浅い部分に引っ掛かっているドアを見て、インターホンを押すべきか一瞬迷う。
またですか、と言わんばかりの表情を浮かべる古泉が頭の中に描かれて、次の瞬間には消えた。きっとあいつなら、申し訳ないと言いこそすれ、またですか、なんて失敬な言葉は口にしないだろう。そうでなくともハルヒ専属のイエスマンで、俺にでさえ低姿勢なのだ。
いや、低姿勢というものは嘘かもしれない。あいつの言動は、口調だけとらえれば低姿勢だが、真剣に内容、言葉そのものを考えればなかなかのものだから。やはり、ハルヒ専属と表現したほうがいいだろう。

ピンポーン、という音がずいぶん間抜けに伸びて響いたあと、静寂が訪れた。そりゃあいつも病人だし、応答に数秒かかっても仕方がないとは思う。あくまで俺は善良的な人間なので、いくら返答が遅かろうとも待ってやろうと思い、待った。
待った。一分待った。されど古泉は出てこない。もしかしたらトイレにでも行っていたのかもしれないと思い、念のためもう一度小さいボタンを押す。ピンポーン、と間抜けな音。
はい、ただいま、という古泉の声は浮かんでくるのに、実際に耳に入っては来なかった。もしかして、病院にでも行っているんだろうか。俺が、さっさと行けと、言ったから。言葉を真に受けて、いや、真に受けてもらわないと困るんだが、病院に行ったのかもしれない。
それならば、携帯は明日にすべきだろうか。一応プライバシーを形にしたような大切なものだし、ドアノブに引っ掛けておく、というわけにはいかない、から。連絡を取りたくても取れない不便さを考えると早く渡してやりたいが、あいつが不在ならば仕方がない。
ならば、一応張り紙でもしておこうか。ポストの中に、早く返して欲しければ俺の家へ(なんという誘拐文句、という言葉が頭に浮かんで消えた)、そう重要でもなければまた明日、といったような詳細を書いて、入れておくべきだろうか。

「…………紙、あったかな」

使えそうな紙と言えばHRで配られる大量のプリントだが、プリントの裏というのも情けないしな。適当につかんだ紙を持って目の前にぶら下げてみたが、こないだの小テストの解答だった。あまりにもお粗末すぎるその点数と解答に涙が出そうになりながら、その紙を鞄に戻す。
こういうとき女子であれば、可愛らしい絵柄で、かつ手頃な大きさのメモ帳でも取り出していたのかもしれないが、あいにく俺はズボラでその辺にひとつやふたつ転がっていそうな男子高校生なのだ。そんな都合の良いものを持っているはずがない。

そのときだった。
ドアに触れた指先が、ふいに浮かんだような、そんな感覚を俺に伝える。え、と口にする間もなく、ゆるゆると、ドアが開かれた。きっちりドアが閉まっていなかったようだ。訂正、きっちりドアを閉めていなかったどころか、カギをも閉めていなかったようだ。

「こい……」

ずみ、という言葉は声にならず、暗い空間に溶ける。
ドアがあいているということは、中に人がいる、ということで。きっと古泉だろう。ここに古泉がいる確率と泥棒がいる確率は半々くらいかもしれないが、って今そんな話はどうでもいい、いやよくない。
予想外にドアが開いていたので、俺も困惑していたようだ。足を踏み入れると、コンクリートの玄関に砂利の音が響く。
乱雑に脱ぎ捨てられた靴が、あいつらしくないと、そう思った。らしくない。ああ、でもきっとそれは俺が勝手にあいつに抱いているイメージにそぐわないからそう思うだけで、実際は違うのだ。あいつの字の汚さを見ていれば、あいつの性格がほんの少しばかり適当だなんてことは、すぐにわかる。しかしそれでも、消えない妙な感覚。

「………こいずみ、」

いきているか。
ここまでの短時間で、あっさり俺の頭の中に浮かんだストーリーがある。五分にも満たないショートストーリーで、主役は古泉一樹。まず、古泉が帰宅する。しかし熱でうまく動かない体、指先のせいで、うまく鍵が閉められない。茹った頭でなんとか玄関に入り、靴を脱ぐ。しかしやたらともつれる足のせいでうまく脱げない。整える余裕もなく、ヨタヨタと廊下を歩く。そして途中で力尽き、

「……こいずみ」

リビングあたりで倒れているんじゃないのかと勝手に想像して青ざめた俺は、小さな声で呼びかけて、古泉を探した。さすがに長いことともに月日を過ごした戦友めいたやつが倒れたかもしれない、という想像をすれば、青ざめもする。ただ、予想を反してリビングには誰もおらず、そのかわりと言っちゃなんだが、古泉の鞄が乱雑に放置されていた。対照的なまでに丁寧に畳まれた俺のカーディガンが、その鞄の上に置いてある。まるで、汚れないように、守るように。

昨日も訪れた古泉の私室に入り込み、ベッドの上に倒れこんだ古泉の姿を確認し、はあ、と短い息を吐く。近寄り、枕もとにしゃがみこみ、古泉の首筋に触れた。ハムスター並みのスピードで血管が脈打っているような気がするが、こいつ、本当に大丈夫だろうか。でも、それでも、いきている。たかが風邪ごときで死なれてたまるか。生きている。いきている、それで、もういい。安心した。

「ばかやろうが……」

俺のカーディガンだってなんだって、気にせず放置して、さっさとベッドに入って、さっさとぬくぬく眠ればよかったものを。フラフラの体で何で、どうしてそこまでして、気を使うんだよ。ばかやろうめが。
目が、こいつの目が覚めたら、俺はどんな言葉を口にしよう。大丈夫か、とか、苦しいか、とか、そんなことよりもまず先に。俺はカーディガンをくしゃくしゃにされたくらいで怒るような器の小さい男じゃない。そう言ってやろうと、少しだけ考えた。