そのスピードで
泥門のチームが最強だとは思っていない。まだ至らないところもあるし、絶対に大丈夫だと自信が持てるところも、ひとつとして出来上がっていないのだから。
だから、頑張らなければならないのだ。体中の筋肉痛も痣も傷も、気にしないで走り続ける。そうでもしないと、頂点には上れない――、
「ああ?」
筧は呟いた。
携帯電話の向こう側では、異様に浮かれた調子の声がひたすら謝罪を繰り返している。説明を求めてもわけのわからない文章の羅列を聞かされるだけで、一向に理解に至らない。
とりあえず、「人を」「ぶっ飛ばした」「偶然」「知ってる」「気を失っている」「すぐ近くの公園」「どうしよう」その単語の内容だけ理解した。繋げてみると一応文章はつながっているように見える…が、いまいちどういった反応を返せばいいのかわからない。
「人を?ぶっ飛ばした。何でだ?」
聞き返すと、電話の向こうでムキャー!と叫び声がした。どうやらここで押し問答するより現場に来いと言いたいらしい。窓の外には太陽の陽がてらてらと地面を照らしていて、見るからに暑そうだ。筧はその現状だけで外に出るのを勘弁したかったが、今回の事件は電話の向こうの馬鹿――水町だけの問題ではない、第3者がいるらしい。それをほうっておくこともできなかった。
外に出て走り出す。けど、アイシールドほど速く走れるわけではない。だが筧はできる限り速く走った。どうして俺がこんなことをしているのだととても後悔しながら。
「…セナ君?」
目を見開いた。
水町の膝の上で永眠しているように見えるのはまさしく泥門の主務、セナだ。前回挨拶に来てくれたということを筧は覚えている。その気遣いは好印象を与えた。
が、今セナは、泥門の制服を着て左手に鞄を引っさげている。明らかに学校帰りだ。そして気になるのは、水町の「ぶっ飛ばした」。セナの外観では、水町を挑発したり喧嘩を売ったりとそう言う風には見えない。何か特別水町を怒らせるようなことを言ったのだろうかと一種の興味を引かれ、筧は水町を見た。
「どういうことだ?」
水町は苦笑を顔に浮かべたまま、いつもの笑い声を上げた。
「ンハッ!…ちょぉっと、ぶつかっちった」
あまりに簡潔な言葉に呆れるが、水町の説明ではその程度しかできないだろうと理解もできたので筧はそこで目を細める。
水町の膝の上で寝ているセナに、どこか外傷は見当たらない。第一軽くぶつかった程度でここまで気絶するものなのだろうか?いまだ理解できない筧に、水町は「わざとじゃねーよ!?」と慌てて付け加える。
「別に、疑ってねーよ。で?もっとわかりやすく話せ」
強く日の照る場所にセナを寝かせるわけにも行かない。筧は水町の膝からセナを持ち上げた。「…軽」「あ、それ俺も思った」「いや、いいから話せよ」筧の追及に水町は苦笑しながら頭を掻く。
「…俺は、この公園でジョギングしてただけだよ。そしたら、裏道からこいつが走ってきて、どーん!…で、終わり」
「ただぶつかっただけでこうもなるかよ?」
プラスチック製のベンチに腰掛け、右端に筧、左端に水町、真ん中にセナを横たえさせる。
セナは未だぐったりしていた。クセっ毛が風にそよぐ。水町は心底困ったようにうんうんと呻っていたが、筧のいつもより少し鋭い視線に見つめられ呟いた。
「だって、こいつすーげぇスピードだったんだもん。あの偽チビシールドみたいな」
「…馬鹿なこと言うなよ」
まるでセナ君があの偽アイシールドのような言い方じゃねぇか。そう言った筧に水町は苦笑を返す。アイシールドのこととなると見境のつかなくなる筧に火をつけるようなまねをしてしまったと僅かながら反省した。
「少なくともセナ君はいい奴だ!あんな、嘘をつくような真似をする人間じゃない」
「へいへい」
どこか聞いたような台詞を受け流しながら、水町はセナを見つめた。額にうっすら浮いた汗を見つけて、長い人差し指を伸ばして拭い取る。どこか涼しいところに連れて行ってやらねばならなかったが、木陰でも大丈夫かという神経がそれを邪魔した。
筧は少しまだ熱の残る様子で何か考えている。そして水町は、今度こそ本当にアイシールドのことを話題に出してしまったことを後悔した。
「ま、とりあえず今はチビシールドのことなんか忘れてさ、セナ君の心配しようぜ」
「…それもそうだな」
なんとなく誤魔化されたような気がしていないでもないが、筧はすんなり頷いた。
「ん…」
そんな小さな呻き声が零れたのは、倒れたセナを介抱してから20分経ってからだった。
水町はその、蚊の飛び回る程度の音も聞きつけてセナの顔を覗き込む。ふわふわと視線が飛び交い、焦点が合わないまま水町をとらえた。そして認識していないような表情で、ぼんやりと視線を移し、筧を見る。
そして、まるで小動物でも見ているかのようにふにゃりと笑った。その邪気のない笑顔に当てられて2人ともやや口を上向かせる。
そしてセナはもう一度目を伏せた。――かと思いきや、瞬間的に目を見開きばっと顔を上げる。
「か…、筧君!?水町君!?」
気絶などなかったかのように起き上がり、左右両方に座り込む長身を見上げる。首を振りながら意識を覚醒させ、困ったようにうつむいた。
「ど…、どうして」
ベンチの上に3人の男が密集した図は傍から見ても暑苦しい。セナはその暑苦しさ以上に冷や汗を感じたような気がした。巨深ポセイドンのエースがここにいる。どちらがいても威圧感を食らうというのに、両方いてしまっては話にならない。ただでさえ筧はアイシールド――セナを憎んでいるというのに。
「覚えてねぇの?俺にぶつかったの」
水町がそう言い、セナはさらに目を見開いた。ぼんやりと覚えてはいる。…ヒル魔に決められた練習の時間に遅れてしまうから、新しく組み入れたジョギングコースのこの場所から走り出そうとしたのだ。その瞬間、木の陰から出てきたなにかにぶつかった。
(あれって、水町君だったんだ…!)
そして、セナは焦りだす。トップスピードで走ったとはいえ、あんな一瞬だったからアイシールドの走りだとは気づかれていないだろう。だが、勘の良い水町のことだ、油断はできなかった。
黙り込んだセナに、筧は視線を投げかける。
「…水町の馬鹿がな、セナ君の走り方が偽アイシールドに似てたっていうから」
今その話をしていたところだ。そう筧に言われて、急にセナは泣きそうになった。ごめんなさいその偽チビシールドは僕なんです。決して本物を冒涜するような考えなんて持ってなかったんです。と、弁解の言葉をつらつらと頭の中に浮かべる。
だが、口に出したのは全く別の言葉だった。
「あ、はは…、まさか、そんなぁ!」
苦笑までおまけにつける。筧は一瞬ほっとしたような表情になり、だよな、と賛同した。
水町は何か疑うような視線でしばらくセナを見ていたが、渋々納得したように頷く。唇を尖らせているから、本当に渋々、なのだろう。
「あの卑怯な奴が、セナ君なわけがない」
そんな筧の念押しにも、セナは苦笑してしまう。卑怯――本当にそうだ。偽りの名前でいつまでいろいろな人を騙し続けるのだろう。駄目なんだとわかっていながらも、自分ではどうにもならないのだ。それは、ヒル魔に脅されるからだとかそんな理由じゃない。ただ単に、自分の気持ちの問題だ。
あのアイシールドを脱いでしまえば、自分はひとたび「小早川瀬那」に戻ってしまう。ちっぽけな、ただの人間に。それが怖くて、脱ぐことすら、名前を名乗ることすらできない。
「…そう、ですね」
だから、セナは何も言わなかった。言えなかった。筧が拳をベンチに押し付け、「あんなスピードで…抜かせるものか」そう言っても尚、何も言えなかった。
けれど、どこか駄目なんだと叫ぶ自分もいた。気づいて、筧に反論しなければと理解している自分もいた。
「………、けど、」
「え?」
気づいたら止まらなかった。唇がかたかたと震えている。理解しているのに、逆らってはどうなるのかわからないのに、唇が勝手に動き、言葉を紡ぎだしていた。
「泥門のアイシールド21だって、…負けない」
「…」
筧がこっちを見てくるのがわかる。じいっと見て、どんな表情かはわからないが――見つめているのがわかる。急に怖くなってセナは肩を浮かせた。水町にも見つめられている。両方に挟まれた状態で、でも尚セナは喋り続けた。
「筧君の嫌いな人だとしても…、そのスピードで、勝ち進む。絶対に、負けない!」
顔を上げて、そして両者の表情も見ないままに立ち上がり走りだす。トップスピードではない、気づかれない程度の速さで。途中であることに気づき、足を止めた。
「あ、あの、ベンチに寝かせてくれてありがとうございました!」
振り返って叫び、そしてまた走り出す。水町の耳には、筧のため息が聞こえた。「…怒ってる?」「まさか」即答ににんまりと笑い、水町は立ち上がる。
「帰って、練習しねーとな」
「…ああ」
そして、走り出した。
絶対に負けない
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