壁にもたれる背中は冷たい。
凍て付くような視線を向けられたヒル魔は怖気づいた様子もなく、毅然と睨み返した。
普段、温厚でさながらマリアのごとく仲間を励ましあう視線などここには無い。
対極の存在なのだと、とっくのとうに知っていた。
『まもり姉ちゃんは、ヒル魔さんが…』
好きなの?と、数秒の躊躇いと共に囁かれた言葉のなんと残酷なことか。
まもりはその場で割腹自殺でもする思いだった。まもりにとっての一番の存在からそんなことを言われるとは。
あまりに言葉に詰まってしまって返事を返せなかった。するとその愛しい子は、何を勘違いしたのかそっか、とどことなく寂しそうに呟いてどこかへいってしまった。
「おぞましかったわ」
「…」
淡々と話すまもりからは感情というものが一切感じられない。
唯一、肌に突き刺さるような嫌悪感。隠しているつもりだが、あまりに出すぎているから、これが感情なのだろう。
その細い腕で、そのやさしそうな瞳で、体全体でヒル魔を拒否する。
「勘違いでもした?私が、あなたのこと好きだって」
皮肉げに笑う彼女は一体どこから壊れたのだろう。
半ば気の毒そうな瞳でヒル魔はまもりを見つめた。勘違いどころか、自分が彼女に好かれているなどと1度も思ったことは無い。
寧ろ、毎日毎日あの子供に近寄るたび、殺意を背中に感じていた。
「冗談じゃないわ、何で私があんたみたいな悪魔なんかと」
唾でも吐きかねない様子だ。
ヒル魔は問答に飽きたように、近場にあったライフルの整備を始めた。その行動に腹が立ったわけではなさそうだが、まもりは声を荒げる。
「私、どうしてもあなただけは許せないのよ。鬱陶しいの、今すぐでも殺してしまいたいほど」
「最も、テメェにゃ無理だろうがな」
無表情に呟けば、まもりは唇をかみ締めて苛立ちをあらわにして。
ずかずかとヒル魔に近寄り、頬を張り飛ばした。
「…フン、みっともねぇなぁ?『まもり姉ちゃん』」
「私の名前を呼ばないでっ!!!」
今度は反対方向から1発。
頬がはれたわけではなさそうだが、じんじんと奥からしびれるような痛みがヒル魔の頬に残った。
気にした様子でもなく、整備を再開する。
「汚い、悪魔ッ!!!」
罵るだけ罵って、まもりは息を吐いた。
それにしてもおかしい。何故ヒル魔はこんなにも、冷静なのだろう。
普段冷静なのは知っているが、こんな風に何の反撃も脅迫手帳も用意しないなど。ざわり、とまもりの背中を何かが過る。
「…今頃気づいたか?糞マネ」
「まさかっ…!!」
振り向いて、まもりは部屋中を荒らした。
自らの手で綺麗にした部室を、自らの手で汚していく。
その矛盾すら楽しいというように、ヒル魔が嘲笑った。まもりは髪の毛を振り乱して、机の下、壁際、ロッカーの隙間を念入りに探す。
探す。捜す。どこに仕掛けたの、と呟く。
やがて一番奥のロッカーの隙間に、小さなカメラを見つけてひゅっと息を飲み込んだ。
「最っ低…」
手を伸ばしてカメラをコードごと引きちぎり、強く床に叩きつける。
半壊したカメラをスリッパごしに踏みつけて、2・3度踏みにじった。がりがりといやな音を立ててカメラが姿を変えていく。
「やっぱり、悪魔ね」
「…お前、今俺にそんな口聞いていいと思ってんのか?」
にやりと、ヒル魔が笑う。
まもりは目を見開いた。ヒル魔に駆け寄り、彼が手にしている小さな携帯を掴もうと手を伸ばす。
と、整備されたライフルが喉元に突きつけられた。
「安心しろ、本物じゃねぇよ。弾丸じゃねえし人体に強い影響が出るほどのもんじゃねえ。ま、相当痛いけどな」
「…なによ。こんなおもちゃ、怖くないわ。それより、早くそれをこっちに」
「渡すと思ってんのか?」
馬鹿が、と罵られ、まもりは目を吊り上げた。
お互い数歩の距離を保って、にらみ合う。威圧感はそこにはなく、ただひたすら殺気と嫌悪が充満していた。
「撃ってみなさいよ、どうせ撮影してるんでしょう?それをセナに見せてごらんなさい、きっとあなたから離れて…」
「残念だったなぁ、『まもり姉ちゃん』。お手柄なことにさっきテメェが壊したカメラで仕舞いだ。テメェの暴力シーンだけならしっかり残ってるけどなぁ」
「…………!!」
携帯をひらひらと翻して、ヒル魔は長い指をボタンに添えた。「やめてっ!!」まもりが鋭い叫び声をあげる。
途端無表情になったヒル魔が、静かにまもりを見つめた。
「なら、従え」
「ッ…!!」
携帯をズボンのポケットに仕舞いこみ、ライフルを肩に添えてまもりの横を通り過ぎる。
項垂れたまもりになんの言葉も残さず、薄ら笑ってドアを開けた。
「従順に従えよ、マモリネーチャン。下手に動いてセナに余計なこと吹き込まねーようにな」
そして一度だけ振り返って、こちらを見ないまもりの背中に言葉を投げかける。
「下手に動かれて消すのも面倒だし、俺は結構、テメェのことが気に入ってるからな」
「…あれ、ヒル魔さん!」
「何してんだ糞チビ」
ライフルを抱えてグラウンドに出てきたヒル魔を、セナは不思議そうに見上げる。
まだ時間は早い。セナの場合、軽く走りこみをしておこうと思っていたからこんな時間に来たのだが、ヒル魔は何をしていたのだろう。
しかしヒル魔のことだ、きっと誰よりも早く部活に来ているに違いない。そういえば、自分より早く家を出たらしいまもりはどうしたのだろう。
「ヒル魔さん、まもり姉ちゃん知りませ…って、どうしたんですか、頬!!」
走り寄り、セナはヒル魔の赤い両頬にそっと触れる。ヒル魔はなんでもねぇよ、と呟いた。
「た、叩かれたんですか?いやでも、ヒル魔さんがそんな風に叩かれたりは…」
不安げに見上げるセナの頭をくしゃくしゃと撫でて、ヒル魔は薄ら笑った。と、セナの背後から細く白い腕が伸びて、ヒル魔の手首を掴む。
「あ?」
「ちょっと、ヒル魔くん!どうしたのその頬、手当てするから部室来て!」
「あ、まもりねえちゃ、」
ずかずかと問答無用でヒル魔を引いていくまもりの背中を見ながら、セナは首をかしげた。
軽くヒル魔の舌打ちが聞こえて、仲がいいのか悪いのかわからなくなる。
(でも、もし仲がいいとするなら)
少し、寂しい。
大好きな人たちが幸せになるのは嬉しいことだけど、と今日も天然全開でセナは考えて苦笑した。
そして、グラウンドに栗田の姿が見えたのを確認して部室に行った2人の顔を見ずにグラウンドに下りていく。
だから、セナは気づかなかった。
どれだけまもりが憎憎しげな顔をしていたか。
どれだけヒル魔が鬱陶しそうな顔をしていたか。
気づかなかった。
「…よく考えたじゃねーか、糞マネ」
「見くびらないで」
手当て、と言って連れてきたわりには救急箱も取り出さないまもりを横目で見ながら、ヒル魔はタオルを取り出して水に濡らす。
適度に絞って投げやりに頬にあてた。じろりとまもりがヒル魔をにらみつける。
「あなた、なんて憎らしいのかしら。どうして私とセナを邪魔するの?」
「そもそも、テメェらに特別な繋がりなんて無ぇじゃねーか」
「……あなたが、知らないだけよ」
「ふぅん?」
目を細めたヒル魔の手の中のタオルを見ながら、まもりは全く悪びれていないように荒れた部室を片しはじめた。
ヒル魔など眼中に無いように、存在だけ綺麗に無視して汚れた机や床を掃除する。
「そりゃ、あいつも知らねぇだろーなぁ。大事な大事な姉代わりが、自分を狙ってるなんてな」
「汚い言い方はよして」
「的確の間違いだろ」
一向に笑みを崩さないヒル魔にいっそカメラの残骸でも投げつけてやろうかと思ったが、まもりはそれをやめた。
うかつに行動するとこの男の手中に嵌ってしまうからだ。
そっとカメラの残骸を手に取り、塵取に投げた。「おーおー、こんな様子セナが見たらなんて言うかなぁ」大げさに肩をすくめてみせている。
「信頼度はどっちが高いと思ってるの?」
「それこそお前が知らねーだけじゃねぇの?」
く、とまもりは唇をかみ締めた。
確かにここ最近、セナはまもりを頼らなくなって。
どちらかといえば、ヒル魔に傾いている気もする。唯一の武器すら取り上げられた気がして、悔しさが胸を潰した。
「哀れだな、マモリネーチャン」
「………」
無言で殺意を膨らます、本来なら信頼しうる立場のマネージャーを見つめながら、ヒル魔は最後にひとつ笑った。
「…あなたに、邪魔させない」
「それはこっちの台詞だ」
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