死んだ後の記憶がある、というのは、さほど悲しいことでもない。
恐ろしいことでもない。珍しいことでもない。面白いことでもない。
ただひとつ、その記憶をねたましいと思ってしまうことがある。
会いたくて仕方ないんだ。
甲斐谷陸、享年17歳。身長159センチ、体重51キロ。死亡原因:車に轢かれそうになった子供を助け、自分が轢かれたことによる出血多量と全身複雑骨折。我ながら天晴れな死に方をしたと陸は思う。
生前はアメフトをやっていて、一応こんな小さな体でも期待のルーキーと言われていたのだ。チームの皆には大きな打撃を与えたのかも、しれない。特に自分の力を深く信頼してくれたキッドという先輩には。
ふよふよとどこかに浮いている感覚に、目を開く。そこにあったのは見慣れた家の天井でもなく、学校の天井でもなく、いや寧ろ天井でもない、真っ青な空だった。
おお、浮いてる。さして過激な感動をするわけでもなくそう思い、空に立ち上がった。奇妙な表現だが一番正しい表現だ。
足元を見てみると、透き通った青と白い雲が大きく広がっている。陸地と思われるものは米粒ほども見えなかった。
飛行機と思しき物体がそれこそ米粒ほどにひゅうう、と過ぎていく。飛行機があれほどの大きさということは地上はさらに下なのだろう。いったいここはどこなんだ。
「ここは、空ですよ」
「いやそりゃわかってるけど…」
話しかけられた声に呆れたように返事して、ん?と首を傾げる。声は背後から聞こえた。今の自分は多分俗に言う霊体。ということは自分の背後にいるのは――、
「うおおおっ!?」
振り返った瞬間立っていた小柄な人影に思い切り叫び声を上げて数メートル後退る。体格的にはそう変わらない小柄な人影は、驚かれたことに対して困惑を見せていた。
恐る恐る顔を上げると、きょるんとまあるい瞳と目が合う。その色の深さと綺麗さに一瞬ぽかんとして、それからはっと気づいて肩を震わせた。
「あ、驚かないでください、僕は別にその怪しいものではなくてですね、あの、」
少し小さな手が伸びて、陸の服の袖を掴む。ということは、この小さな――子供に見えるが、この子供も、死んだということなのか?
つんつんした髪の毛をふわふわとなびかせながら、子供は上手にではないが微笑んだ。どうやら向こうも緊張めいたものをしているらしい。
「お前も、死んだのか?」
若いのにかわいそうだな、と思った。
それは自分も同じなのだけど、けれど。目の前の子供は自分よりも幼く見えて、だからそう思ってしまったのだろう。
すると子供はきょとんと目を丸めたかと思ったら、次には薄く笑んでぶんぶんと首を振った。「え?」じゃあお前はなんだっていうんだ、と言おうとしたが、それより先に子供が口を開く。
「僕は、天使です」
「………は?」
思わず聞き返してしまった。
子供はなれたように苦笑して、「天使です」再び繰り返す。
着ている白いローブのようなものはそれっぽいが、頭の上に輪は無いし、羽も生えていない。思考が読めていたかのように、それでも天使なんです、と子供が言った。
「…はあ。で?」
子供の話を全て信じたわけではないが、先を促す。
子供はいそいそと空の上に座り込んだかと思うと、ふいに両手を合わせた。「?」数秒後掌を開く。そこには、豆電球ほどの小さな光がぼう、と浮かんでいた。
「これは、次のあなたの未来です」
「未来…?」
一種の手品のようなものを見せられて少しだけ混乱している頭を働かせ、それだけ聞き返す。子供ははい、と頷くとその光を陸の掌に移した。
ものめずらしげに触れてみる。指先が少しだけ温かく、何かやわらかな綿を持っているような感触だった。
「それを呑み込むと、あなたは次の未来へ生まれ変わります。勿論今までの記憶も何もかもリセットされて、真っ白な状態へ」
「いや、そりゃあ呑み込むけど…」
「え!!?そうなんですか?」
「は?」
自分から差し出しておいてなんだそれは、と目を細める。
子供はううん、と首を傾げるなり陸の額に自分のそれをぶつけた。突然の急接近に驚きながらも、何か意図があってのことだろうと陸は口を閉じる。近くにある大きな瞳に何かが吸い込まれそうな気がして目を閉じた。
うんやっぱり、という声と吐息が鼻にかかって、くすぐったさに目を開ける。それと同時に額と熱が離れていった。
「あなたは、生前とても満たされていた。そんな世界に未練は無いんですか?」
簡単に呑んじゃっていいんですか?
と、聞かれて戸惑ってしまう。確かに満たされてはいた。数日後に試合も控えていたし、常に期待されていた。先輩と騒いだり、たまにはハメを外したり。勉強だってそこそこできていたし、自分にとっては最高の人生だったはずだ。未練が無いはずはない。
心配げにこちらを見つめる子供を見て、それから手の中の光を見つめた。
「未練があったらどうするっていうんだ?」
「…未来と引き換えに、1度だけ心残りなことを解消できます。それからは俗に言う幽霊となって永遠にこの世界をさまよい続けることになりますが」
「……」
心残り。心残り。あるといえばある。試合だ。
数日後の試合は、全国行きをかけた大事な試合。それを、自分が欠けてしまったらどうなるというのか。
根底から自分の気持ちが覆されてしまったようでおもしろくなかった。それ以前に、揺らいでしまった。もう先程のように簡単に、未来を受け入れるなどと言えない。
けど、未練があるからと言ってここにとどまり続けるわけにはいかない。悩みに悩んで、そしてうつむいた。
「…お前は、なんなんだよ。天使とかいうくせに、未練はとかなんとか聞いてくるし。普通、さっさと未来を選ばせんだろ?」
子供はその言葉を聞いて一瞬、しゅんと目じりを下げた。何かいけないことを言っただろうかと不安になり、顔を覗き込む。
大きな瞳が悲しそうに歪められているのを見て、おい、と声をかけた。
「うん、…そう、ですよね、」
「?」
「僕が天使っぽくないのは、うーん…僕もわかってるんだけど、うん、うん…」
ひとり考えはじめた子供に首を傾げる。
だんだん、掌の光が弱まっているような気がした。それを見咎めた子供が光を手に取る。子供の掌に戻った瞬間、その光はもとの輝きを取り戻した。
「……天使っていうのは、もとは人間です。生前、多大なる功績を残して死んだ人間が、死んだ人間を正しい道へ導くために天使にされるんです」
「じゃあお前も、何かすごいことやったのか?」
子供はぶんぶんと首を振り、膝を折って腕で抱え込んだ。顔を隠して、それから蚊のなくようなか細い声で続ける。
「もういっこ、あるんです。天使になる条件が」
「……?」
「それは、自殺すること」
「……………!」
ゆっくり、あまりにゆっくりと子供は顔を上げる。透き通るような瞳に陸がうつりこんだ。
「自殺した人間は、その大罪により強制的に天使にさせられます。そして、自分が死んだ歳の数だけの魂を来世に送らなければならない。その義務を全うできれば、自殺した天使も来世へ生まれ変わることができます」
「…」
「僕は16歳で死んだから、16人を来世に送ればいいんです。けれど、自殺した天使に任せられる魂は皆未練のある魂ばかりで、僕はいつも来世に送ることができない」
だからあなたのように、すんなり来世に行くと決めたヒトは珍しいんです。そう言った子供に、納得したように陸は頷いた。
しょんぼりと項垂れる子供の頭を撫でて、眉を寄せる。
「今まで、何人のヒトを送ったんだ?」
「………わからない。覚えてないんです。ほとんどは現世に残ったし、随分前から数えるのをやめたから…」
「でも、俺が来世へ行けば、お前も早く生まれ変わることができるんだよな?」
「…………」
途端に黙り込んだ子供の表情で、すぐさま理解できる。
己の魂を優先させるために陸に来世へいってもらうのは気が引けるのだろう。違うって、と呟いて、顔を上げた子供の頬を引っ張った。
「俺はもう、大丈夫だ。未練なんかないって。な、だから、俺を来世へ送ってくれよ」
「…………ほんとに?」
なおも疑う瞳を向ける子供の頬をことさら強く引っ張ると、子供は目を細めて痛がる。
未練が完璧にないといえば嘘になるが、だからといってここにとどまり続けることが望みではない。こんなところで悩んでいる時間があるのならば、さっさと来世へ行くことが正しいのだと陸は考えた。
それに、この子供が少しでも早く生まれ変わることができるなら。未練など、これっぽっちも生まれない。
「本当だ」
「………」
複雑な表情を浮かべた子供の頭を軽く小突く。半ば観念したというような顔をした子供は、そっと掌の光を再び、陸の掌に移し変えた。
ほうほうと光る光を口元まで持っていく。口の中が一瞬熱くなったが、すぐに喉を流れていった。途端に腹がすうっと冷えて、それから目の前がだんだんと暗くなっていく。
「なあ、」
子供の目を見つめた。深い色はそのまま、ずっと陸の瞳に映りこむ。この光に、また会えますように。
「俺は甲斐谷、陸。お前の名前は?」
次の瞬間には手先足先に力が入らなくなり、空の上に倒れこんだ。それでも首だけはもたげて、子供を見上げる。瞼が重くなり、頭ががんがんと痛い。耳鳴りのようなものがきぃん・きぃんと鳴り続けて、それから何も聞こえなくなった。呼吸さえ。
子供がゆっくりと口を開く。
「 」
何か言ったけれど、何も聞こえなかった。唇の動きで言葉を読み取ろうとする。
けれど、瞳すらもう、何を映しているのかわからなかった。きぃんきぃんきぃん。やかましく鳴り響く音に、陸は再び子供に問いかける。
名前は、?
短い手足を見つめて、はあ、と息を吐く。
死んだ後の記憶はいまだ、脳の中に残り続けていて。ひとつすら色あせずに輝いている。
前世でも自分の体は小さかった。今の自分は10歳、まだこれからだが、昔の体を思い出すとこれからもあまり成長するようには思えない。
先行き不安になり、目の前に立っている教師を見つめた。「緊張してるかい?」問いかけられて、ぶんぶんと首を振る。
前世の記憶のようなものがある以上、どうにも17歳以下の子供はガキっぽくて見下げてしまう。今の自分が同年代だとわかっていても、年下だと思ってしまう。
甲斐谷くんは大人っぽいね、と言われるが、それはまあ、仕方の無いことなのだろう。
「じゃあ、あけるよ。入ったら自己紹介してね」
「はい」
わあわあとドアの向こうから聞こえる喧騒にぐったりしながら、教師の後を追った。開くドア。途端に静まりかえる教室。教壇の上に立ち、教室全体を見つめる。
溢れかえる好奇心の瞳のなかに、見覚えのある深い色を見つけて目を見開いた。
「甲斐谷陸くんです。皆、仲良くしてね」
そんな教師の言葉が耳を抜けて通り過ぎていく。
一方、瞳の合った子供といえば、そのつんつんした髪の毛を窓から入る風になびかせながら、不思議そうな瞳でこちらを見返していた。
自然に笑みが浮かび上がる。
「…甲斐谷、陸、です。よろしく」
「それじゃあ陸くんは、セナくんの隣の席に座ってもらおうかな」
「はい」
はい、って、とうろたえる教師を背中に、つかつかと子供のもとへと。
不思議そうな瞳は、確かに陸を映していた。「よろしくな、セナ」その言葉に押されたように、セナは少しだけ目を見開いて頷く。
頭の中に浮かび上がった空の中には、小さな子供が笑っていた。
―――ああ、やっと。お前も、
『セナ、だよ』
やっと、会えた。
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