常に無い珍しさで、事件を伴いやってきたのは、我らが団長ではなく胡散臭い笑みを常備している副団長だった。とは言っても先日の一件でこいつが厄介ごとを運んでくることが皆無ではないという事実は証明されているのだが。

「こんにちは。やはり僕が最後ですか、すみません」

なんて心にも無いことを言いながら指定席に腰を下ろす。
俺はその古泉の一連の動作を見るだけで、普段より四ミリは目を見開いた。ハルヒと軽い会話を交わしている古泉の全身をくまなく見つめて、そのひどさに唖然とする。長門も少しは気付いたようでかすかに視線を上げたが、自分のどうにかできる管轄ではないと理解したのか、すぐに視線を下げた。

「う………」

ひどい。ひどい。めちゃくちゃだ。思わずこみ上げた吐き気を抑えようと口を手で覆う。俺の横に茶を置こうとしていた朝比奈さんが、盆を机の上に置いておろおろと可愛らしい声を上げた。

「きょ、キョンくん?どうかしたんですか?体調が悪いの?」

ああさすが朝比奈さん、あなたはまさにエンジェルです。しかし体調が悪いのは目の前の古泉のせいであって、物理的には何も問題は無いんですよ。精神的にキてるだけです。
適当にごまかして手を振ると、朝比奈さんは納得がいかないように眉を寄せながらも、そうですか、と言ってくれた。
一方、俺と朝比奈さんの会話に気付いたらしいハルヒが「あんた体調悪かったの?」と問いかけてくる。ピョンと軽い足取りで近づいてきたハルヒは、おもむろに俺の額に手を当てた。

「なによ、熱は無いじゃない」

「いや、だから体調は悪いわけじゃないんだって…」

余計な手間かけさせないでよね、といささか理不尽な言葉を吐いたハルヒは、再び団長椅子へと戻っていった。くるくる回る回転式の椅子にどっかりと腰を落とし、いつもどおりキーボードを叩いてカチャカチャやり始める。
ハルヒがいなくなった俺の隣の空間に、むわり、と瘴気が広がった。

「大丈夫ですか?」

「こ、いずみ」

瞬間、俺の体中に一気にさぶいぼが出来上がる。ぞわわ、と背筋を駆け抜けていった寒気が怖気に変わり、俺は反射的に椅子を鳴らして後ろに下がっていた。
どうしたんです、と問いかけながら俺に手を伸ばそうとしてくるので、これまた反射的にぎゅっと目を瞑る。
どろりとにごるような瘴気が体中に纏わりついた。気持ち悪い、きもちわるい、気持ち悪い!今すぐにでも払ってやりたいのに、皆がいるからそうもできない。
しかし、いつまで経っても何も起こらないことに気付き、俺は恐る恐る瞼を開いた。目の前には、見慣れた黒いカーディガンと、ざっくばらんに切られたショートカットが揺れている。

「……な、が、と」

「………」

長門は無言で古泉の腕を掴んでいた。俺に触れさせないように。にごった瘴気は長門の腕を伝って体中にまとわりつく。黒い煙のようなものが古泉の体から流れ出て、俺の足元まで這いずって来る。ぱくぱくと口を開閉させている古泉をよそに、長門はさらりと言い放った。

「早く。外に」

「へ?」

「出て」

外に出て、除霊をしろということなのだろう。俺はありがたく頷いて、椅子から立ち上がった。こんなに濃い瘴気にあてられたのは久しぶりで、俺はよたよたと震えながら部室を出る。ドアを閉めてもまだ体中にしがみついてくる黒い煙。即座に手を組んで念を放出し、体についたものを吹き飛ばす。
気を遣ってくれた長門の体についていたものも、後で払ってやらなきゃな。心に決めて、吐き気を抑えるためにトイレに向かう。ドアの向こうからは、ハルヒと長門の話し声が大きく漏れてきていた。あんたどうしたのとか、キョンもどうしたのとか。ああもう、こういうときにみえてないやつはいいなあって思うぜ。




とりあえずポケットの中に入れていた塩を自分の体にふりかけ、そのまま小さく呪文を唱えた。気分一新。胃の中のものを盛大にぶちまけた後なので若干足取りは重たいが、気持ちはだいぶ楽になった。
ついでだからブレザーの内側に強制排除の札を貼り付けておく。強制排除という文字通り、近づいてきた霊や瘴気(一口に言うと悪い空気ってことだ)を跳ね除け、それが俺に害をなすものであれば強制的に排除する。しかしこの札、価値が結構高く、作るのも面倒だし枚数もそんなに無い。家に帰ってから作るのにも四時間はかかる。しかも効果は永続ではなく、一定の物質を排除していればいずれ使えなくなる。こんなに強い瘴気ならなおさらだ。
だから正直あまり使いたくないのだが、仕方ない。あんな強大なもの相手に出し惜しみなんかしてられるか。

ひどい怨念だった。

古泉の手足に絡みつき、胴体にも同じく幾重にも腕が巻きつけられて、瘴気は古泉を覆い隠してしまうほどに湧き上がり。ただの一般人にあそこまでの怨念がつくはずがない。
だからあれは、呪詛だ。恐らくは、古泉を呪うために送られた人工的なもの。それっぽい呪文や工作が見受けられなかったから、思いが強すぎて作られたような超自然的なものなのだろう。つまり古泉に呪いをかけたのは正真正銘の一般人だ。
しかしそれが逆にタチが悪い。呪う、と明確な意思や道具が用いられているのならば俺はそれに対抗する手段を考えることができるが、人の思いが積み重なったものはどう扱ったらいいか全く予想がつかないし、思いが強すぎて打ち負けることもある。

「………」

あいつ、大丈夫かな。
普通の人間があそこまでの瘴気に耐えられるとは思えないんだが。見えない人間でもわるいものにはしっかり影響を受ける。しかしあいつは、いつもどおり笑っていた――、ああ、でも、我慢してるだけなのかも。
その瞬間、ぞわりと肌が怖気立った。古泉が近くにいる、と反射的に察し、体についた塩を払う。塩の入っていた紙はくしゃくしゃに丸めてゴミ箱へ。

「ああ、良かった。ここにいましたか。…その、大丈夫ですか」

案ずるように俺に問いかけてくるのだが、俺は逆に問いかけたい。古泉おまえ大丈夫か。やはり体に絡みついた手足はぎゅうぎゅうと古泉を締め付けて、その体から溢れる瘴気は地面を這い、空中を漂い、俺へと近づく。強制排除の札のおかげか、一定の距離からはこちらに届かなかった。

「大丈夫だ。悪かったな」

「いえ。てっきり僕が何かしてしまったのかと」

あーうん、結構その通りなんだけどな。とは言わず、曖昧に笑っておく。しっかし、これはひどい。なんでこいつは立っていられるんだろう。思わず手を伸ばし、古泉の肩をぱしりと叩く。勿論念を放出しながら。
蜘蛛の子を散らすように瘴気が肩から三十センチほどの範囲で吹き飛んだが、また現れてくる。

「どうしたんです?」

「あ、いや、ゴミがついてた」

「すみません」

まだついてるぞ、と言いながら古泉に背中を向けさせ、背中のある一点を強く押した。古泉の心臓の横にある、人体の中心と言われている部分だ。そこに直接念を叩き込む。ぶわり、と寒気がするほどの勢いで俺の念は拒まれた。が、いくらか絡みついた手が離れていく。
しかし、まるで持ち主を探すかのようにぺたりぺたりと近づいては、古泉の体にまた戻っていく。…いかん、これはキリがない。

「そ、そんなについてるんですか?」

慌てたような古泉の声にはっとして顔を上げた。

「ああいや、もうそんなに無いぞ。うん。よし、もう大丈夫だ」

適当に数回叩いてとりあえず瘴気だけ飛ばしておいた。また復活するのは目に見えているので、文字通り気休めだ。怪訝な表情をする古泉を押し進ませ、俺は苦笑を浮かべた。

「ところで古泉、最近お前、調子悪くないか」

探りを入れてみることにする。
もしこれで、全くどこも悪くありません、と言われたら俺は古泉に対する認識を改めなければならない。これだけの瘴気と怨念に包まれて過ごすのは並大抵の精神では耐えられないはずだからな。
もしこれで古泉が、すこぶる悪いです、助けてください、そう言ったのならば、俺は正体がバレることも厭わず助けねばならないだろうと心に決める。
古泉はしばらく躊躇ったように口を開閉させていたが、やがてしょぼくれたように眉を下げた。

「………どうして、わかったんですか?」

涼宮さんにもバレなかったのに、と口にする古泉に、俺はよく我慢したな、と言いたい気持ちに駆られる。お前、耐えるのが上手すぎてわかんないんだよ。早速集まり始めた瘴気を、古泉の背中に隠れて手を組み、払う。

「別に。なんとなく、だ。例のバイトか?」

「いえ、そういうわけじゃないんです………、けど……」

「けど?」

言え。
言っちまえ。
まあ俺が一般人だと認識しているのならばこんなこと言いづらくて仕方ないかもしれないが、言ってしまえよ。そうしたら助けてやる。
いつまでも仮面をつけて、うわべだけ繕って逃げるなんて言うなら俺は手を差し伸べてなんかやらないぞ。

「……変なことだと、笑われたくないんです」

「笑うもんか。そこまで言われると逆に気になる」

聞き出そうとしてみると、古泉は躊躇ったように口を閉じた。もうすぐ部室だ。部室では言いにくいことなのですが、と言う古泉を急かしつつ部屋に入ると、そこには長門しかいなかった。
ハルヒたちは?と問いかけると、どうやら長門が帰した様子。珍しい光景に古泉は唖然とするばかりで、やはりまた躊躇うように俺を見る。俺はそんな古泉をよそに、長門についた瘴気を取っ払ってやっていた。見えない人間から見たら、俺が長門を意味無く叩いていたように見えただろう。なんとも滑稽な図だ。

「何してるんですか、あなた」

古泉の質問を一切無視する俺に、かわりに長門が、

「楽になった。ありがとう」

と言う。長門は瘴気を感知できているから、体にまとわりついたことにも気付いているし、厄介だと思っていたのかもしれない。役に立ったならよかった。
念のため長門にも強制排除の札を渡しておく。長門は無感動にありがとう、と言って、大切そうに制服のスカートにそれを入れていた。

「何を、」

その一連の流れで古泉がすべてを理解できなかったのは当たり前のことだろう。
僕は何を見ているんだ、そんな顔をして、叩かれて「ありがとう」なんて言った長門を凝視する。それから、その疑わしい視線を俺へと。へんなものを見るような目で見られたが、生憎そういう目は慣れていたので、俺は苦笑を伴って古泉の肩を押した。
錆びのつきかけたパイプ椅子に座らせ、ぽんぽんとわけがわからない表情をしている古泉をなだめる。さ、話をしようぜ。お前が何に悩まされているのか。ある意味悩ましげなその腕の正体を明らかにしようぜ。
まるで椅子にしばりつけられたみたいな顔をした古泉は、ひくりと口元を引きつらせた。