走りながら、携帯を握り締める。何かあったら連絡をしろと言っておいたが、もしあの女が現れて古泉が腰を抜かしたら(自分で考えてなんだがそれはないなと思った)、連絡してる暇なんてないよな。俺が到着するまでに最悪の事態が起きなければいいんだが――ちなみにこの場合の最悪の事態とは、あの女が古泉に何かをする、ということである――、と思いつつ速度を上げた。霊をはらう力はあっても身体能力は普通の人間なんだ、急ごうにもこれが限界。と言うか、体力を使いすぎて霊の前で力尽きるなんてことになったほうがお笑い種だ。
せめて近くに自転車か何かがあれば、と立ち止まって見回すが、何も無い。自分の自転車はあの公園に置いたままときた。今から戻れば時間のロスになる。一反木綿的な何かがいればいいんだけどな……あ、あれって妖怪か。

こんな時間じゃろくにタクシーも走っていない。背中にじんわりと汗がにじんで、足が痺れてきた。走りすぎたせいで横腹まで痛んできて、もうなんか古泉は放っておいてどこかで休みたい気持ちがじわじわとにじんでくるのだが、そうも行くまい。もうこの際何でもいいから移動するための何かをくれ。ローラースケートでも構わん。

「あれ、キョン何してるの?」

キイ、と音がして、俺の足元を照らしていた何かが消えた。自転車のライトだということに気付いて顔を上げれば、そこには、

「……国木田!」

何してるのはこっちのセリフだ、と言いながら、汗をかいた額に手を当てる。電灯の下に立つ国木田の自転車、そのカゴの中には、見慣れた白い小さな袋がぽつんと置かれていた。

「なんだか眠れなくて、小腹もすいたからコンビニに。今は帰る途中。で、キョンは何をしてるわけ?」

「え、あ、俺は、」

突然話を振られ(突然というわけでもないか)、焦る。こういうときにサラッと嘘が出るようなさかしい頭をしていないのだ、俺は。ええい仕方ない、あまりこう言うときに引き合いに出したくは無かったが、

「またハルヒが何かやらかすらしい。肝試しだと」

「こんな時間に?キョンも大変だねえ」

「そ……うでも、ないさ」

お疲れ様、じゃあだいぶ走ってお疲れのキョンにこれをあげるよ、と国木田は袋の中から取り出した紙パックの紅茶を差し出してきた。なんていい奴なんだお前は。いい奴ついでにその自転車貸してくれないか、と言いたくなったが、そこまで言ったらさすがに国木田に迷惑だろう。
しかし俺があまりに熱心に自転車を見つめすぎていたからだろうか、国木田はサドルから降りて、俺にハンドルを持たせた。

「え」

「はい、どうぞ。急いでるんでしょ?壊さないって約束するんだったら使ってもいいよ」

「や、でも……」

「僕の家、そんなに遠いわけじゃないし。ちょっと最近運動不足だから、それも兼ねて歩くよ。だから使って大丈夫」

ほら、と言いながら自転車を押し付けられ、俺は感動に打ち震えながらもありがたくサドルに乗っかった。多少低いがそんな我儘を言っている場合ではない。急げ俺、と内心で自分自身を急かして、片手を挙げた国木田に心の底からお礼を言った。
紅茶と荷物をカゴの中に放り込んで、方向転換をする。こっちだった、かな。実を言うと古泉の家をきちんと知っているわけではない。このへんです、と言っていたのをうろ覚えで記憶しているだけで。
まあ近くに行けばあの女が何らかの思念を残しているだろうから、それを辿って行けばよかろう。楽天的と笑われそうなことを考えつつ、ペダルを思い切り踏みしめた。


漕ごうとした瞬間、ポケットが震える。携帯だ、しかも電話、と判断した俺は、一応遠ざかってはいるが国木田が見えなくなる位置まで移動して、ディスプレイを確認する前に耳に押し当てた。またあの女か。

『……ッす、すみません』

古泉?

『先ほどもでしたが、こんな夜分遅くにすみません。ぼ、僕です』

「ああ……、どうした?」

もしかすると最悪の事態が起きているのかもしれない。背筋を伝う嫌な汗を認識しながら問いかける。

『あの、何か家が変なんです。電気が消えたりついたり、あの、へんな、声とかが、ですね』

「…落ち着け、何があったのか端的に」

古泉の息は荒い。家の中を走り回ったか、緊張でそうなっているのか。あの女が来たのか?その可能性が一番高いが。
時間が惜しい、と思い、自転車を進ませる。耳に押し当てた携帯は熱を持ち、俺の耳を温めた。古泉の声が近いようで遠い。

『は、はい。ええと、まず、寝ようと思っていたら、ベッドが揺れて。起きたら電気がついて、消えて……部屋のどこからか、女の人の笑い声が聞こえるんです、なんだか、体のまわりも寒い、ような』

「札は?」

『持ってま、すけど、もう字が見えないで……』

引きつったような声が耳元で轟いた。どうした、と問いかけても、古泉は何も言わない。ガタガタと物を動かすような、あるいは走り回っているような、あるいは何かを打ちつけたような音が聞こえたが、古泉の声は聞こえない。

「古泉!」

呼びかけにも反応しない。くそ、やはりあの女が?いや、それしかないだろう。ポルターガイストを起こして何をするつもりなのか。わざと古泉の恐怖心を煽っているような行動。対面した当初は、ただあいつにくっついていただけだったというのに。
霊としての自我が芽生えた?あるいは、古泉に対しての敵意、それに相当する怒りを覚えたか。俺にはわからないが、あの霊が必要以上に古泉に執着し、何かをしようとしているのだけははっきりわかる。

『たすけ』

ペダルに押し付けた足に力をこめた瞬間、古泉が言った。

『助けて……、助けて、ください!』

はじめてと言ってもいいほどの、古泉の懇願。心から求められた助けに、背筋がぶるりと震えた。絶対に何があっても助けてやると、心の底から思えた。すう、と息を吸い込んで、後ろの喧騒に負けないように古泉に向かって声をかける。

「古泉、近くに学生鞄はあるか!」

『は?い、今それ関係あ』

「あるから言ってんだ、早くしろ!化学のノートを出せ!」

『かが、く』

古泉は理数系だからか、化学の授業が多い。一日おきか、毎日にも匹敵するような、とにかく比較的持ち運びが多いのが化学のノートだった、と思う。時間割を見たときにはそう思ったんだが、間違いだっただろうか。
古泉はガサガサと鞄の中を探っているようだった。

『あり、ました』

「とにかくそれを持ってろ!絶対に手放すなよ、いいな!」

『は……』

恐らく「い」、と続けられるはずだった声は、激しいノイズによって遮られた。深夜番組も終わって、そして放送終了した後にテレビに流れる砂嵐のような音。邪魔しないで、と言われても俺は依頼人は助ける主義なんでね。邪魔させてもらうよ。
通話を切り、携帯をポケットにねじ込む。ふいに頬を撫でる生温い温度。気温ではない、濃い瘴気だ。この近くだな、と判断して、自転車のスピードを緩めた。
できれば俺が進入できるような場所に住んでいてくれよと願いつつ、建物を見上げる。長門の住んでいるところほどではないが適度に高級そうなマンションの一角、暗くなった窓から、どろりと濃い瘴気がもれているのが見えた。

「そこか」

呟いて、国木田の自転車を付近に止める。マンションの駐輪場を借りることにした。ここの住人じゃないけど、使わせてもらいますよ。すんませんね。
しっかり鍵をかけてエントランスに駆け込む。暗号認証とかがなくてよかった。人気の無い、気配すら薄い廊下を走り、エレベータのボタンを押す。やはりこの時間帯はほとんど人が使わないらしく、すぐに到着したそれに乗り込み、外から見た様子だとこの階だった気がする、というところのボタンを押した。
待ってろよ古泉。とりあえず死ぬなよ。