多分、もうだめなんだろうなあ、と思った。
机の上に置かれた白いマグカップの取っ手から手を離す。とうに冷めたコーヒーの中途半端に苦い匂いが部屋中に充満して気持ち悪いくらい。テレビからは自分にとって何ら関係のない事件や事柄が淡々と放送され続けていて、耳が痛かった。だったら切ればいいのだと理解するまでに数秒を要して、のろのろとした所作で手を伸ばす。白い、かすかに汚れたリモコンを手に取って一際大きく色づいたボタンを押した。ぷちん、という小さな音がして、かすかに肌の表皮を覆っていた圧迫感のようなものがかき消える。
おれはゆっくり立ち上がって、電源の切れたテレビをじいっと眺めた。テレビを置いた台の中、ビデオやDVDを収納してあるところに視線を下ろし、のろのろと近づく。こまめに掃除をしているせいか、無駄に輝いているように見えるその台兼棚を開くと、中からはナンバーがふられたホームビデオと映画が録画されたDVDが姿を現した。
少々埃を被っているらしい奥まで手を伸ばし、恐らくは初期にあたるホームビデオを手に取り、ビデオレコーダーにセットする。今時ビデオレコーダーなんて持っているのは珍しい部類に入るんじゃないだろうか。ウィイイイン、と音がしてカセットが巻き戻しされているのがわかる。それからしばらくすると、聞き逃してしまいそうなくらい小さな音がして稼動音が止まった。
再生ボタンを押せば、やや遅れて画面に大きくひとりの女が映し出される。誰でもない、おれだ。髪の短い、今とたいして変わらない、だけど少しだけ若いおれ。幸せそうに笑っているおれ。
その笑顔の先に、誰がいるのかも、おれにはわかっている。
「こい、ずみ」
口からこぼれ出た名前は痛いくらいにおれの心臓を揺さぶった。
きゃらきゃらと笑いながら走っているおれを、追いかける、カメラ。追いかける、古泉。ドラマみたいな草原を、二人して走っている、まぬけな姿が。今のおれにも、昔のおれにも、愛おしくて仕方なかった。思い出が褪せないようにと、記憶から薄れてしまわないようにと、例え褪せて薄れてしまっても、二人で肩を並べてこれを見ようと、そんなくさい理由で古泉が購入したハンディカメラ。
おれが、あまりにも幸せそうで、泣けた。
「こいずみ……」
うつ伏せればぼたぼたと涙がこぼれてくる。四季をともに過ごしたおれたちが、莫大な情報量を伴って、こんな小さな棚の中に納まっているというのに。
今のおれたちに、こんなにもあたたかくて愛おしい感情は、ない。
――帰りが遅くなったのはいつごろからだろう。
一緒に暮らし始めた当初は、何でこんなに早く帰ってくるんだというくらい早く帰って来てはおれにひっついてきたというのに。会社に戻れよと言いながらも笑顔を隠せなかったおれを、あいつも知っているというのに。
いつからか、残業が多くなった。会社の同僚や上司の飲みに付き合うようになった。メールや電話の回数が減った。家に帰ってこなくなった。
会社の同僚や上司との付き合いも大事ですけど何よりあなたが、と言い続けていたあの笑顔。仕事は勤務時間内に終わらせればいいんですと言った余裕綽々の態度。ぜんぶぜんぶが、少しずつ、砂の城が風化していくみたいに。遠くなった。消えていった。離れていった。
「こいずみぃっ………」
瞬きをするたびに涙腺から漏れ出た液体が頬を滑って落ちていく。顎のラインを伝って、雨水が屋根からゆっくり垂れるような速度で、溜まっては落ちてを繰り返す。にじむ視界には幸せそうなおれの笑顔。ああ、なんて。
おれは古泉になにも言わない。言っても無駄だと解っているから。あいつの気持ちが、おれから離れていっているという事実をきちんと理解しているから。一緒に暮らしましょう――、ただそれだけで、おれたちにはこれっぽっちもつながりがないのだということを、ちゃんと解っているから。
(だから)
さよならだ。
古泉の笑い声とおれの笑い声が重なり合うテレビ画面を一瞬だけ、見つめる。名残惜しいという感情すら抱かないまま、リモコンの停止ボタンを押した。きゅるきゅると音を立ててテープが巻き戻されていくのをきちんとこの耳で聞き届けて、巻き戻しが完了してきゅる、と音を立てたレコーダーを一瞥する。きちんとカセットはケースにしまった。奥底、映画やドラマが録画されたカセットのさらに奥へしまいこんで、さよならをする。
『今日は重要な会議があるので帰れません』
その背後で、既にできあがっているような笑い声と、こいずみぃ今日の飲みはどこ行く、と言っていた声が、頭から離れない。
(財布、と)
立ち上がるリビングには、少し前まで香っていたはずの家主の香りなどとうに失せていて。
ただ無機質なエアコンの匂いと、朝自分ひとりで食べたホットケーキの匂いがするだけ。
(少しの、着替えと)
テレビ台の下を丁寧に整えて、立ち上がる。なんだかひどく、体がだるい。泣き疲れたようで、目の奥と、こめかみあたりがずきんずきんと痛む。観葉植物のその隣、いつもならば古泉のスーツ、上着がかかっているところに無造作に引っ掛けてある鞄を取って、そこに下着と着替えを入れた。二泊三日程度の簡単な服。着まわしすれば十分足りるだろう。
(携帯、は)
机の上を綺麗に拭いて、キッチンの元栓を確認した。冷蔵庫の中に腐りそうな食べ物が何も入っていないことを見てから、洗い残していた白いプレートを洗って拭いて、棚の中に戻す。開けっ放しのジャムは、甘ったるい香りが嫌になって、捨てた。
机の上に置かれた、新品同様の携帯は、ずっと前からもう鳴らない。
会いたい奴の伝言を、届けてくれやしない。
(いらない、な)
ふいに唇に浮かび上がってきた苦しい笑顔。引きつった頬を右手の人差し指と中指で撫でて、テーブルの上に置いていた鞄に手を伸ばした。置きっぱなしの携帯からはデータをすべて削除して、ついでに電池パックも抜いておく。置手紙がなければ一応あいつも困るだろうかとおれなりに配慮して、短いながらも一筆筆を走らせた。
さよなら。
今までありがとう。
おれの荷物は全部捨ててくれていいから。
色気もそっけもない文章だと自分なりに気付いていたが、どうしようもない。愛していたとか、幸せだったとか、そんな言葉を書く勇気すらない。おれらしくていいじゃないかと半ば自分に言い聞かせ、使用したボールペンはゴミ箱に捨てた。おれの使ったものはすべてゴミ箱へ。おれのいた形跡は全部消してしまって。
多分古泉は、いつか俺との思い出が詰まったビデオも捨てるのだろう。何の躊躇もなく。未練もなく。それが恐らく当然のことで、おれもそれで構わないと思っている。
「……さよなら」
けれども、きっと古泉は、おれが出て行ったことにすら気付かないのだろう。
おれはほんの少しだけ笑って、長期に亙っておれを住まわせてくれた家を、出て行った。
古泉の帰ってこない、日曜日の昼のできごと。
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