最近、家に帰っていないんじゃないのか、と聞かれた。
「突然何を言い出すんです」
営業に回っていた国木田氏が、うちのリーダーに用事がある、とデザイン部に訪れたのがつい先ほどの出来事。リーダーへ通したかと思えばすぐに戻ってきた彼は、開口一番こう言った。最近、家に帰ってないんじゃないの。
「言葉通りの意味だよ。最近、家に帰ってないんじゃない?」
「何故?」
午前中にかき集めたデザイン案を茶封筒にすべて押し込みながら、微笑を絶やさないまま問いかける。国木田氏は浮かべていた笑顔をあまり雰囲気のよくないそれへと若干歪めて、わからないのかなあ、と呟いた。
わからないわけがない。高校時代から一緒だった国木田氏のことだ。仕事ばかりで疲れているのではないかと僕を心配しているわけではない、
「……キョンに、ちゃんと会ってるの?」
ああ、やっぱり。
デザイン案を収納した茶封筒の口を留めて、付箋をつけた。プレゼン用に仕上げた原稿もクリップで留めて封筒と一緒にまとめる。あまりにも片づけをしない同僚ばかりが集っていた会議室は、まるで小さな子供が暴れまわったかのような混然とした空間へと変容していた。床に散らばる白い紙、失敗したデザイン案、報告書類、有給届け。誰が休むと言っていたんだっけ。最近結婚したばかりの有田さんだったか。
微笑んだまま何も言わない僕に、国木田氏は浮かべていた表面上の笑顔を消した。いや、笑みが浮かんでいることは浮かんでいる。ただし、温度を感じさせない、冷ややかでかたいものだ。僕の態度で言いたいことはほとんど察してくれるだろうと思っていたのにも関わらず、彼はどうしても僕の口から言わせたいらしい。
仕方がないので床に散らばっていた書類を集めるよりも先に、彼の問いに答えることにした。なんてことはない、たった一言。
「会って、いませんよ」
会っていない。
事実だ。
最近は、メールも電話もしていない。いや、していることは、している。晩御飯はいりませんだとか、今日は遅くなりますだとか、帰れませんだとか、そこらへんの。定期的な報告、あるいは事後報告といったところか。
キスもセックスもしていない。多分、一ヶ月以上で、二ヶ月足らず。ソープに行くかと同僚に誘われたけれどそれはさすがに断っておいた。溜まっている。
だからと言って抜くためだけに家に戻るのも気が引ける。
「何故、急にそんなことを言い出したんです?彼女から何か連絡でも?」
床の書類集めを再開し、僕はすっかり爪の伸びた指先を見つめた。汚い。不揃いの爪さきは相当くたびれきっていて、しかも栄養素が行き届いていないせいか、そこかしこが折れていた。最近胃に入れているものと言えばお昼の脂っこい鶏唐弁当か、夜に同僚たちと行く屋台や飲み屋でのビールやツマミだけ。
ろくな野菜もとっていない。そりゃあ、爪だってこうなるだろう。
国木田氏はしゃがみこみ、僕と同じく書類を集め始める。表面上だけはありがたがって、謝辞を述べるも、国木田氏は反応しなかった。
「まさか。キョンとは、高校を卒業してからほとんど連絡は取ってないよ。今日出勤表を預けられたからね、何気なく見てみたら、古泉くん」
顔を上げた国木田氏の瞳には、くたびれきったのにどこかふっとんでしまったような、僕の顔が映っている。
「……最近、一日まるまる会社にいるじゃない。飲みにもしょっちゅう出てるって話を聞くし、それで、気になってね」
「はあ」
耳聡い人だ。きっと気になったのは、出勤表だけではないだろう。僕が最近会社に付きっ切りだということは軽い噂になっている。噂を聞きつけて、すぐに事実確認をしに来たのだろう。おあいにくと事実なのだけれど。否定も肯定もしない僕に何の文句を言うでもなく、国木田氏は続けた。
「帰らないのは、何か理由でもあるわけ?」
逃げを許さない口調だった。
のたのたと動きの鈍い僕とは違い、迅速かつ丁寧に書類を拾い上げていく国木田氏が、まとめた書類を僕の手元に落とす。コピー用紙から画用紙まで様々な厚さの紙がずしりと腕に付加をかけた。理由。理由。あるに決まっている。
「そりゃあ、あるから、帰らないんですよ」
当然だと続けたいくらい。
僕の呟いた言葉に、国木田氏の鋭い声がすぐに返る。
「……へえ。家にキョンをひとり置いて放っておくのも当然になるくらい、重要な理由?」
聞かせて欲しいな。
国木田氏が笑う。
ああ、高校時代からずっと思っていたことだけれども、この人は食えない人だ。もしかすると僕なんかよりもずっと、仮面を被ることが上手なのかもしれない。この物腰の柔らかさに騙された人がいったい何人いたことか。
重たい腰を上げて、正面から国木田氏を見つめた。昔は随分と背の低いイメージがあった彼も、今ではほとんど目線が変わらない。いや、やはりそれでも、五センチ以上の差はあるだろうか。そう考えても十分伸びたほうだとは思うが。
言い逃れや適当な言葉は彼の怒りを増長させるだけだろうなと察して、溜息を一つ吐く。
「汚い話ですが、出世、ですよ」
「………出世?」
「ええ。出世、です。先日越山さんが辞められたばかりですから、仕事量が増えたんです。そればかりではない、室長に最近僕の仕事が認められてきたんです。付き合いをよくすればするほど、僕の出世も早まりますしね。次の集会は一ヵ月後ですから、それまでになんとか印象付けておかないと」
「…………」
国木田氏の望むとおりに本音をさらけ出したというのに、彼の表情は晴れない。それどころか、眉間にかすかな皺まで寄っていた。笑顔を作り損ねたような奇妙な引きつった表情が印象的で、つい黙った後もじろじろと不躾に見つめてしまう。彼はひくりと唇を動かした。
「……意外だな。古泉くんって、出世にそこまでこだわる人だったっけ?」
これは、どう取れば良いのだろう。皮肉か、純粋な疑問か。
とりあえず彼の中で滝の如く下がり続けているだろう僕の印象を上げるために、口を開いた。
「特別こだわっていたわけではないんですがね。これでも、自分なりに、彼女を喜ばせようと頑張っているつもりなんですよ。昔僕が出世したとき、彼女はひどく喜んでくれましたから。僕のためにも、彼女のためにも、今は会社に従事しているわけです」
「……………」
一応、間違ったことは言っていないはずだ。
だって本当のことだ。僕は、出世がしたい。勿論、この会社のヒエラルキーの中で最下層にも近い僕がこき使われるのは当然のことだし、そんな社員が満足に自由な時間を取れないというのも当然のこと。出世をすればほんの少しだけ余裕が生まれる。その分、彼女と一緒にいることができる。
彼女が好きだ。だから出世する。おれを理由に使うなと、彼女なら言いそうだけれど。
「……でも、家にほとんど帰らないのはいただけないな」
国木田氏がぽそりと呟いた。
どうやら、事実確認どころではなく、個人的な説教をするつもりらしい。別に説教なら聴きなれているが、これが彼だということがいけない。他の人と違って、耳を傾けてしまうから。
「けれど、彼女ならわかってくれますよ。僕が、会社につきっきりなことも。付き合いで仕方なく飲みに出ていることも」
これ以上国木田氏の棘のある言葉を聞きたくなくて、半ば強引に話を遮った。遮られたこと自体には何の怒りも感じていないようだが、それでもまだ納得のいっていない様子で国木田氏が僕を見つめる。昔よりは若干険の増した瞳と、幼さの完全に抜け切っていない整った顔に見つめられ、僕の背中がじんわりと冷えた。
国木田氏が、微笑む。とてもとても悲しい、そんな、笑顔だった。きみはわからないんだね、と言われた。どういうことですかと問いかけた。
「言わなきゃ伝わらないことだって、あるんだよ」
「………」
今度は僕が黙り込む番だ。
国木田氏は僕から視線をそらすと、くるりと自分の足元を確認する。落ちている書類はないか、見ているようだった。
きれいな彼の革靴が、室内の青白い光に晒されて鈍く光沢を放っている。自分の、磨き忘れて薄く汚れた靴なんかとは違う。奇妙な、劣等感に似たような感情が、心臓の周りをくるくると回っているような感じがした。
彼は、付き合っている女性がいるのだろうか。僕と同じような気持ちを、味わっていたりするんだろうか。それとも最近、似たような境遇で痛い目でも見たのだろうか。それはわからない、けれど。
「……じゃあ、失礼するね」
彼女に、会いに行かねば、と思った。
昼休みを利用して会社を抜け出す。
最近いっそ愉快なほどに帰っていないせいで、家に帰るために乗る電車の時刻を忘れてしまった。幸い発車の間隔は短く、そう待たなくとも次々電車がホームに停まる。
飛び込むように電車に乗り、少しの間揺られて、小ぢんまりとした駅に降りた。そこから徒歩十分ほどだったはずだ。さすがに家までの道のりは覚えている。かつかつと薄汚れた靴がアスファルトとぶつかって音を立てるのを、まるで他人事のように聞いていた。
自宅の鍵が閉まっていることに気付いて、財布の中から鍵を取り出す。いつもならば家には彼女がいて、鍵も閉まっていないため(無用心だと思うのだが、鍵を開ける手間が面倒と言われて結局いつも開放していた)、今日はどうしたのだろう、と考える。もしや、出かけているのだろうか。なんてタイミングの悪い。
しかしまあ、久しぶりの家というのはいいものだ。扉を開けた瞬間に香ってきたホットケーキの匂い。恐らく彼女が食べたのだろう。
冷たいフローリングの床に足の裏をつけ、のろのろと歩く。もし本当に出かけているのであれば、置手紙だけでも残しておこう。そう思ってリビングのドアを開けたら、何も置かれていないテーブルの上に、先客があった。置手紙、だ。
きっとへんなところで律儀な彼女のことだから、僕がもしかしたら帰ってくるかもしれない、という思いで、書置きでも残したのかもしれない。あの人は、やさしい人だから。自然と頬が緩んで、しまりのない表情を浮かべたまま僕はその紙に手を伸ばす。
そして、固まった。
――さよなら。今までありがとう。おれの荷物は全部捨ててくれていいから。
瞳が、何か間違った情報を仕入れて脳に送っているのではないかと思うほどの、奇妙な衝撃が僕を襲う。
いつもならそこかしこにおいてある彼女の私物。机の上に置いてある彼女の箸。キッチンの上にそろえられている食材。何もかもが、ない。紙をくしゃりとポケットに突っ込んで、リビングの外に出た。あらゆる部屋を探す。それこそトイレから風呂、果ては客間の机の下まで。
(………うそ、だ)
いない。
(………どうして)
どこにも、いない。
(なぜ、)
『言わなきゃ伝わらないことだって、あるんだよ』
国木田氏が、くすりと笑ったような気がした。
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