じーわじーわ、と、蝉がおれを追い立てる。
追いかけられているわけでもないのに、逃げなければ、という奇妙な使命感のようなものを感じていた。
さすがにもう、夏だ。しっとりと汗ばんだ背中に日差しが突き刺さって、じりじりと熱が襲い掛かる。生活に困らない程度の金を持ってきたには持ってきたが、余計な金は使いたくないから、と言う理由で、店の中に逃げ込んだりはしなかった。
しかしそろそろ限界がきそうだ。熱中症にならない前に、と、スーパーに駆け込む。できるだけ荷物は減らしたかったが、こればかりはないと困る。スポーツドリンクと、日焼け止めを買って近くの公園まで走った。
日陰を探して座り込む。ショートパンツから伸びる足は、思った以上に白かった。ああそうだ、ずっと、家で待ってたもんなあ。あいつが帰ってきたときに、ちゃんとおかえりって、言ってやれるようにと。
白い液体を膝頭に垂らしてから、はっとした。どうして日焼け止めを塗ろうと思ったんだろう。昔から、どれだけ焼けても気にしない人間だった。女ならもっと気にしなさいよとおふくろに言われたことを思い出す。でも、いつから日焼け止めを塗るようになったんだっけ。ああそうだ。あいつが、白い肌が綺麗だと言ったから。

「……………」

ばかみたいだ。
くすりと笑って、おれは日焼け止めをそっと地面に転がした。もう塗る必要なんてないじゃないか。あいつにこの肌を見せることは、ないんだろうから。膝頭に乗っかった白い液体がてろりと垂れる。茶色い地面の上に落ちて、溶けることもなく、そこに留まった。
でも捨てることはないよな、なんて、こんなときに必要のない「もったいない精神」を発揮させる。ごめんなと心の中で呟いて、罪のないボトルを拾い上げた。そうだな、年をとったら、しみがどんどん増えてくるんだ。みっともないだろ、そんなの。だからつけるんだ。
いいわけじみたことを考えながら体中に日焼け止めを塗布していった。みっともないのは、今のおれだった。ほんとうにみっともない。白い液体に時折混ざる、生温い透明な雫が鬱陶しくてたまらなかった。まだひこずっている。当たり前だ。まだあいつのことを好きだ。
でもあいつはおれのことを好きじゃないから。

ままあ、どうしておねえちゃんないてるのお?と、間延びした声が聞こえた。顔を上げると、黄色い帽子を斜めに傾けてかぶった小さな男の子が、おれを見て指をこちらに向けている。まま、にあたるのだろう、綺麗な女性が、困ったようにおれを見た。ごめんなさいね、とでも言いたげな表情だ。きにしないでください、こんなところで泣いているおれが悪いんですから、と、こっちもありったけ、表情にこめたつもりだ。
日焼け止め特有のねばっこい感じがする手の甲で、ぐいっと一息に涙を拭おうと思ったのだが、目の中に入ったらただごとじゃすまんな、と思ってそれはやめた。ハンカチ、持ってたっけ。鞄の中からぼろぼろ、くしゃくしゃになったハンカチを取り出して、それで拭う。気付けばあの親子はいなくなっていた。再び訪れる、蝉の合唱。

とりあえず、一昨日の夜は、移動で時間を費やした。昨日は、カプセルホテルに泊まった。今日は、どうしよう。そろそろきちんと、寝泊りできるところを探すべきかもしれない。
アパート、でも探そうか。いまどきの時期、一人暮らしをしたいんですけど、と不動産に駆け込むのはなんだか、いかにもな感じがして嫌なのだが、背に腹は帰られない。実家に帰ることも一瞬考えたが、事情を知った両親や妹たちに、関係の修復を迫られるのが嫌だったし(まだ決まったわけではないのだけれど)、簡単に足がついてしまう。古泉が探しに来る可能性は限りなく低いが、それでも可能性が少しでもある限り、実行しないのが吉だ。
ハルヒや長門を頼るのは、おれの気が進まなかった。古泉と別れたから家泊まらせてくれ、なんていわれて、いい気はしないに決まっている。長門は何も言わず泊めてくれそうだが、申し訳ない気持ちになるし、ハルヒはきっと古泉のところに怒鳴り込みに行くか、おれをせっつかせるかのどちらかをするだろうし。
実家にせよ友人にせよ、古泉の連絡網に引っかかるところにはいるべきではないのだ。じゃあ、どこに行こう。どこなら大丈夫なんだろう。

「………あ」

呟いたおれは、携帯を取り出そうとした。いつだったか、携帯にメモを残した覚えがある。古泉と一緒に住み始めてから滅多に行くことはなかったから、最後に行ったのは一年、二年ほど前だろうか。ああ、そうだった。携帯は置いてきたんだっけ。仕方が無いからほとんど機能をしていない手帳を取り出し、パラパラと捲って見た。末尾のページに申し訳程度に友人幾人かの住所と、望んでいた住所が記載されている。よかった。メモ欄にまで及ぶ住所ならびにそこに行くまでの道のりと、料金と、時間。今から行けば、夜までには着くだろうか。連絡を、しよう。それで、許可が下りたら、しばらくそこで暮らさせてもらおう。
今はほとんど使われていない埃を被ってやや白く曇りがちになった公衆電話を使用する。古臭いにおいが鼻腔をくすぐっておれは小さく眉をしかめた。丸っこい、独特のボタンをかちかちと押して、手を放す。ぷるるる、といっそ懐かしく思えるほどのコール音がおれの耳に届いた後、ひどく懐かしい声が続いた。
ああ、ばあちゃん?今からそっち行ってもいいかな。うん。多分、夜には着くから。あと、このことはおふくろたちには内緒にしてほしい。え?ごはん?気にしなくていいよ、おれが作るか、何か買っていくから。なに?マヨネーズ?わかった。……

あっさりと出た了承の言葉に、おれは半ばあっけに取られていた。だってそうだろう、こんな簡単にOKが出るなんて。運が良い、良すぎだ。もっとばあちゃんは、俺を疑ったっていいのに。それともおれがあんまりに音沙汰なしだったから、感極まってそれどころじゃないのかもしれない。いや、でも、おれが行くだけでそこまで喜ぶわけがないだろうし。いや、でも……。

「あー、もう」

小さく呟いて、両手をぱちんと頬に当てた。ぐだぐだ考えるな。考えると、とんとろくなことが無いのだ。そのうち思考回路がどういった脱線事故を起こしたのかはわからないが、古泉のことに話が発展して、また自己嫌悪に陥るに違いない。

「……………はあ」

短い溜息を吐き出すと、ほんの少しだけ気が楽になった。
マヨネーズ、買って行こう。こんなとこで立ち止まっていないで。もっと楽しいことを考えよう。いや、考えるのをやめよう。
今は、何も考えちゃだめなんだ。考えると、悲しくなるんだ。どうしたって、あいつが思い浮かぶのだから。あーあ。