夢のような時間、を悪い意味で使用するとこんな感じなのだろうか。
まさしく、夢のような時間だった。
まだ実感も湧かないまま、ただ時間に追われるように家から出て、一応施錠を確認して会社に一端戻った。途中のことを覚えていない。とにかく、足を向ける方向に歩いて、汗が流れてきたから拭って、会社の涼しいクーラーがきいた部屋で、座り心地の良い椅子に座ったらしいが。ちっとも覚えていない。

(さよなら、って)

さよなら。今までありがとう。おれの荷物は全部捨ててくれていいから。
彼女らしい、丸みを帯びない丁寧な文字で書かれた絶望的な文。それを脳内で繰り返すと、びっくりするほど胸が痛んだ。さよなら。今までありがとう。おれの荷物は全部捨ててくれていいから。いいわけがない。何で、さよならなんて。さよなら。今までありがとう。おれの荷物は全部捨ててくれていいから……。

捨てていいわけが、なかった。

ゆっくりと立ち上がり、書類をまとめて保管してあるカウンターまで向かい、有給届けを取り出す。日時未定と滅茶苦茶なことを書き込んで、理由に家人の失踪、と書きかけてぐしゃぐしゃにした。二枚目。再び日時未定と書き込んで、無難に親戚の葬式と書いておく。出張先は、どこがいいだろう。静岡あたり、いや、もっと遠いところ。いっそ北海道でどうだろう。海外にでもしようか?足がつきにくそうな場所を。怒られるか。
それを書き込んで、ポケットに入れっぱなしだった印鑑ケースを取り出して、すっかり使い込まれて汚れた印を押した。かすれた古泉の字に息を吹きかけ、朱色のインクを乾かす。通りかかった同僚が僕の手元を覗き込んで目を瞬かせた。お前正気か、と言われた。もしかすると正気じゃなかったかもしれませんね。そう、思った。

「次の会議、一ヵ月後だぞ。有給で、そんで、日時未定って」

「帰る目途が立ちませんから」

「それにしてもなあ……おい、心証悪くなるぞ」

構いませんとも。とは言えなかった。
すみません、と言って目の前の同僚の肩を押し、リーダーのもとへと急ぐ。重要書類は全部彼に渡しているけれど、有給届けを突き出したのは初めてだったかもしれない。

「……どした、古泉」

「見ての通りです。お休みをいただけませんか」

「や、有給届け書いてから言う台詞じゃないよそれ……」

呆れたように言われた。彼も、困っているのだろう。まだまだやるべきことは残っている。プレゼンも近いし、書類もまとめられていないものが数点残っている。あいさつ回りに行くと言われていたことも思い出したし、企画案を出すためにまた会社に残らなければと思っていたことも思い出した。

ここ最近、家などないと言わんばかりに仕事に没頭し、会社で日を過ごしていた僕だから、休みは有り余っているには違いないのだろう。だが、こんな時期に休みを与えられるほど会社には余裕が無い。僕の勤務態度が真面目だったからこそ、こんなときに休みを与えても良いのか、断るべきなのか、そう思ったに違いない。だからきっと彼は、きっとずっと、思っている以上に困っている。

「…別に、俺ぁいいんだが、親戚の葬式じゃそんなに休みはやれんぞ」

「じゃあ祖母が死んだとでも付け足しておいてください」

「お前なあ」

今度こそ呆れたように返された。僕は随分と、無茶なことを言っている。それはわかっている。
だけれども、心象を悪くするのは僕の望むところではなかった。何のために僕が会社に篭りきりになったのか。出世のためだ。その可能性をゼロに帰すのは、これから探しに行くつもりである彼女にとっても喜ばしくないことだろう。きっとそうなれば、彼女はおれのせいなのかと自分を責めたてるに違いない。もしくはおれを理由に使うなと怒るか。そのどちらかに限るだろう。

「心証を悪くされるのは、困ります。でも、休みももらえないのも、困るんです」

「……嘘ついてでも、休まんといかん理由があるのか」

リーダーは僕を試すように目を細めた。
煙草くさい匂いが鼻腔をくすぐる。試すように、じゃない。多分きっと試していた。試されていた。もし出世と彼女を両てんびんにかけたら、限りなくつりあって、それでも彼女のほうに傾いたに違いない。僕の心は安定せず、ふらふらと揺れていた。

それでも。

「―――…はい」

口にした僕に、リーダーは笑顔を向ける。有給届けを綺麗に小さく畳むと、それを胸ポケットにしまった。
それから、人の悪そうな笑顔を浮かべ、何日くらいとったらいいんだ、と涼やかな声音で続ける。

「早ければ二日、遅ければ一週間ないしは二週間、です。今のところは。……最悪の場合は、」

「一ヶ月か」

「……はい」

僕の言いたいことをすべて、とは言わないが概ね理解してくれているらしいリーダーは、了解了解、と軽い返事をすると、僕の頭をぽんと叩いた。あっけに取られる僕をよそに、リーダーは、そんなにいい女なら一度くらい紹介してくれよ、と笑いを含ませた声で言う。
目を見開いた僕を見て、笑顔が向けられた。僕に彼女がいるということは、別段有名な話ではない。同じ仕事をしている人間であれば知っているだろうが、そもそも部下のプライベートに関与してこないリーダーがこのことを知っていたなんて驚きだ。それとも、僕の態度がよっぽどわかりやすかったのか。

「ありがとうございます」

リーダーの背中に向かって声をかけた。リーダーは手を振って、がんばれよ、と呟いた。




会社から必要なものを、家にまた戻って必要最低限の荷物を取り、とりあえず電車に乗り込んだ。彼女の行動パターンがわからないわけではない。多分彼女のことだから、僕に勘付かれるような場所には逃げていないだろう。逃げる、と言う表現は随分と失礼かもしれない。訂正、僕に勘付かれるような場所には向かっていないだろう。
いつ彼女が出て行ったのか、それが正確にはわからない。ただ、キッチンに残っていたホットケーキの匂い。それほど日が経っているわけではなさそうだ。
腐るようなものはきちんと処分していたあたり、彼女らしい。僕が困らないように、僕のことを思って、いつだって行動してくれた人だった。つまりは、僕は、なにもわかっちゃいなかった。国木田氏の言葉が、今更心臓に突き刺さる。

携帯を握り締めて、彼女のアドレスを呼び起こしても、通じるはずがなかった。だって真新しい携帯は無造作に捨てられていたから。どんな気持ちで、どんなおもいで彼女がああした行動を起こしたのか、僕は何も知らない。知ろうとすら思っていなかった。だから。

さよならありがとうおれの荷物は全部捨ててくれていいから。

彼女を追い詰めたのは僕だと、今なら声を大にして言える。僕の責任が百パーセントですとは言えないけれど、どうして彼女も言ってくれなかったのかと責める気持ちも少しはあるけれど、でもやっぱり、僕の責任にしかならない。僕が、僕は、彼女が僕のことを想ってくれているということを、少しばかりないがしろにしすぎていた。
反省しても今更遅いけれど。


電車を乗り継いで、どこへ行くのか僕は考えていない。鈍行の電車はガタンガタンと僕の心情とは裏腹にゆっくり進む。考えろ古泉一樹。彼女が行きそうな場所を。考えろ。
旧SOS団の団員に聞いてみようと考えたのも一瞬、恐らく彼女は誰にも何も言わないで行動したに違いない。余計に騒ぎ立てて、涼宮さんたちに心労を負わせてしまうのは本意ではないだろう。だとすると、行ける場所は限られてくるはずだ。実家、はまず無い。僕が真っ先に思い浮かべる場所だからだ。次に候補として上がるのはやはりSOS団女性陣の中の誰かだが、朝比奈さん、は無いだろう。そうそう連絡がつけるポジションに立っているわけではない。次に、涼宮さん。彼女に連絡をすれば面倒なことになるだろうと僕ですら思うのだから、彼女がそんなところに行くはずがない。最後に長門さん、彼女なら誰にも口外しないだろうし、家の中に彼女を置くスペースは十分にあるし、何より彼女が一番信頼していた人物だ。可能性としては高いが、その実、彼女は長門さんに迷惑をかけることを誰よりも嫌がっていた。彼女を頼るのはほぼ他に手段がないときだけで、できるだけ他に解決策があれば進んでそれらを試していたように思う。つまり彼女が、長門さんに助力を求めているとは考えづらい。
結果、実家・SOS団以外のどこか、ということになった。もしこれでカプセルホテルなどを転々とされていたらなかなか探せないかもしれないが、お金の無駄になることも彼女は好まない。だとすれば誰かを頼るとは思うのだが、勿論それは僕の知らない誰かだろう。連絡がつかない場所、彼女が頼れる人物、かつ僕があまり知らないような人物ときたら。
いとこ、あるいはそれに順ずる親類のどこかだろう。可能性として高いのは、彼女が長期休みに入ったとき、定期的に訪れるらしい田舎だが。
しかしそこは僕が考えそうなところだから、やはりここも違うだろう。それ以外で、どこか。僕の知らない、関わったことのない彼女の親類と言えば、ええと、誰か、いただろうか、確か、そうだ。

携帯を取り出して、彼女の実家に連絡を入れる。
もしもし、と響いた懐かしい声に、心臓の鼓動が少し緩んだ。