作らなくていいと言ったのに、ばあちゃんはおれにご飯を作って待っていた。じいちゃんも、畑仕事のためにいつもなら九時を過ぎる前に眠るというのに、甚平に着替えた状態で待っていてくれて。
事情は、聞かれなかった。おみやげ、正しくはお使いで買ってきたマヨネーズをばあちゃんに渡して、久しぶりの場所に足を踏み入れる。
大きい茄子を手渡されて困っていたが、とりあえずもとあった場所に戻しておいた。ほら、晩御飯、と言われて居間に向かう。懐かしい電灯に照らされた室内、古いテレビと、四角形のテーブル。その上に、質素だがおいしそうなご飯と味噌汁、そして茄子のお漬物と、肉じゃがが並べられていた。
「あんたの好きななす、ほら、たくさん出来て。ああそら、食べんさい。お茶、持ってきたげるけんねえ」
「あ、いいよばあちゃん、座ってて」
「いいんよ、お客さんは座っとりぃ」
もう七十を過ぎているというのに元気なばあちゃんは、迷いの無い足取りで台所へと向かった。おれの真向かいに座ったじいちゃんが、どこから取り出したのか、大きな酒瓶をテーブルの端にどんと置く。ばあさんお猪口持ってきてくれや、とじいちゃんが声を張り上げて、台所からばあちゃんの、はあい、という大きな声が聞こえた。
「お前がここに来るのも、久しぶりじゃけんの。飲め」
「うん……」
久しぶりにここに訪れたものだから、どうしてこんな中途半端な時期に、おれが一人でここに来たのか、その理由を聞かれるものだと思っていたのに。事情を聞き忘れているのかとも思ったが、そういうわけでもなさそうだ。元気そうで良かった、と呟いたじいちゃんが、おれの頭を豪快に撫でる。思わずこみ上げてきた涙をこらえようと、目の前にあった箸に手をつけた。
ばあちゃんが戻ってきて、お猪口二つとコップとお茶を持って来た。絶妙なバランスだ。急いでそれを受け取ってテーブルに並べると、おれの横に座ったばあちゃんが食事を促す。
「そうそう、昨日、おおきいトマトもとれたけんねえ。それも持ってこようかねえ」
「え、ばあちゃん、そんなに食べれないぞ」
「ああ、ええんよ。ちょうどさっき、じいさんと食べようか、て話しとったけん」
また立ち上がったばあちゃんが、元気に台所に向かっていった。夏場にここに来ると必ず食べさせられていた、塩トマト。文字通り、トマトに塩をかけるだけのものだが、これがまたうまいのだ。じいちゃんとばあちゃんが住む場所は空気も土も綺麗だし、水も綺麗で育つ野菜がとてもおいしい。
酒のつまみに良かろうが、と言いながらじいちゃんがお猪口をぐいっと傾けた。おれも倣ってお猪口に口をつける。じいちゃんの好きな辛口の日本酒が、すうっと喉を焼いて食道を下りていった。
「今年は気温が落ち着かんかったから、野菜もたくさん駄目になってなあ」
少し離れた場所からばあちゃんの声が聞こえる。ふうん、大変だったんだな、と半ば無神経なことを言うと、そうじゃなあ、とじいちゃんが相槌を打った。
包丁がとんとんと静かに音を立てるのを耳に入れながら、お猪口を傾ける。
「ようけ酒もらったけん、遠慮せんと飲めよ」
「……いや、そこまで酒に強くないから、そんなに飲めないぞ」
「飲め、ほれ飲め」
じいちゃん人の話聞いてるか。それとももう酔ってるんだろうか。
ぷんと香る日本酒が脳神経をふわふわさせる。人前でお酒を飲み過ぎないように、と古泉に言われたことを思い出した。だめだ、いちいち思い出すなと、ふるふる頭を横に振れば、じいちゃんが笑う。
「きつかったか」
「………まあ」
違うけど、否定するのもどうかと思ったので肯定しておく。リズミカルな包丁の音が止まって、しばらくしてばあちゃんが戻ってきた。皿の上に綺麗に並べられた、みずみずしいトマトを見ていると、なんだか急に食欲がわいてくる。
ばあちゃんの作る料理は薄味で、家で食べる料理に比べれば若干味気ない気もするが、それがまた良いのだ。そのくせトマトには塩をたくさんかけるものだから、夏はそのギャップに驚いては楽しんでいたっけ。多くを語らないじいちゃんと、からから笑うばあちゃんを見ながら、俺は久しぶりに心休まる食事を終えた。
今時の湯沸かし機能なんてついていない、昔ながらの風呂を出た後、お古じゃけんねえ、と渡された寝巻きという名の浴衣(詳しい名称は知らん)に悪戦苦闘しながら居間に戻る。じいちゃんは既に寝たらしい、居間で新聞を読んでいたばあちゃんが顔を上げ、俺の姿を確認して、ところどころずれた着物を直してくれた。
「小さいかもしれん、てことはなかったなあ」
ばあちゃんが若い頃使っていたものだそうだが、若い頃のばあちゃんと今の俺の体格は似てたのかもな。苦しくない程度に前身ごろを正されて、思わず背筋が伸びる。
「あんた、今、ええ人はおらんの?」
「……ええ人って、」
ふいに頭の中に浮かんできたシルエットを瞬時にかき消して、数秒のち、いないよ、と呟いた。ちくりと心臓を爪楊枝で刺されたような痛みが襲う。ばあちゃんは着物から手を放したと思うと、おれの顔をじいっと見て、何を思ったのかはわからないが薄く微笑み、ぽんと頭を撫でてきた。しわしわの掌に優しく髪の毛を梳かれて、肩の力が抜ける。
「……今日は、もう寝んさい。客間に布団があるけん、それ敷いて」
「ばあちゃんは?」
「すぐに寝るつもりじゃけん、あんたは寝なさい」
「………」
わかった、と言うべく口を開いた瞬間、玄関口で控えめな音が聞こえた。ガシャガシャ、という感じの、横引き戸を叩くような音が。
おれの体が強張る。同時に、ばあちゃんもなんだか怪訝そうな顔をした。時計を見上げれば、日付が変わる一時間前と言ったところか。こんな遅くにいったい誰が。
もしかすると泥棒、あるいは強盗の類だろうか。控えめでもノックをする律儀な強盗なんて聞いたことはないが、いてもおかしくはない。武器になりそうなものを探してきょろきょろしていると、左肩を押された。
「寝とき。ばあちゃんが出るけん」
「え……、いや、危ないだろ!」
もし本当に強盗だったらどうするんだ。ばあちゃんがいくら元気だとは言え、じいちゃんが寝た状況でそんなのに襲われたら危ないに決まってる。まだ若いおれが出たほうが危なくないに違いない。そう言って出ようとしたら手首を引っつかまれて、ばあちゃんが玄関に向かっていく。
「ばあちゃんっ……」
小さな声で呼びかけると、壁にかけてあった上着を身に着けながら、ばあちゃんが「寝とき」と呟いた。
意外でもなんでもなく頑固なばあちゃんを説き伏せるのは無理だと判断したおれは、玄関近く壁にそっと凭れて聞き耳を立てた。もしばあちゃんの悲鳴が上がりでもしたら、見てろ。誰だかわからないが、そこにある鎌で攻撃してやる。と、物騒なことを考えながら。
がらがらと、夜に響く音を立てて戸が開く。もしょもしょとくぐもった、男の声が聞こえた気がした。玄関の戸から少し離れた位置にでも立っているのだろう。ばあちゃんの声ははっきりと聞こえる。
「どちらさんかね」
少なくとも突然暴力を振るうような奴ではないようだが、注意するにこしたことはない。体を緊張で強張らせながらさらに耳を澄ませる。じゃり、と土を踏む音がして、男が近づいた。またもしょもしょと何かを言って、ばあちゃんが怪訝そうな声を上げる。
「聞いたことない名前じゃなあ」
相手が名乗ったらしい。誰だ。誰が来てるんだ。そろそろおれは鎌を持って飛び出すべきなのか?
などと俺が考えている間に、二人が会話を続ける。男が何かを問いかけたらしい、ばあちゃんが固い声音で俺の名前を口にする。呼ばれたのかと思ったら、どうやら違うらしい。
「……あの子なら、来とらんよ。用件があれば、伝えるけん、私に言い」
おれに?
おれに、用事?
もしかしてハルヒでも来たんだろうか。いや、違うな。男の声だ。一瞬例の優男の顔が浮かんだが、あいつがここまで追いかけてくるはずがない。手がかりはとことん残さないようにやってきたし、あいつも会社にこもりきりで、飲み以外で外に出ることはないだろうから。
じゃあいったい誰が、と考えていると、ふいに肌の表皮がぞろりと粟立った。田舎は夜が寒い。薄い着物に加え、玄関から入り込んだ風がここまでやってくるせいだろう。掌で二の腕をさすっても、足元から這い上がるような寒気だけはやり過ごせない。
鼻がむずがゆくなって、口を手で覆った。喉が引きつる。背筋がぴくんと痙攣して、はっ、と息を吸い込んだおれは、はくしゅん、と小さなくしゃみをしてしまった。
その瞬間。
「……やはり、いらっしゃるんですね」
目を見開くような衝撃が俺の鼓膜を襲う。懐かしい、と思う暇もなく、がしゃんと戸が限界まで開けられる音がした。ばあちゃんの制止の声を耳に入れながら、震え始めた足を自覚する。どうしてと唇が動いた。革靴のような音が石づくりの床に響く。中に入ってきた。
「………!」
息を吸い込み、急いであたりを見回す。どこか、どこか逃げられるところを。どこか、どこか、どこに逃げれば。どくどくと心臓が急激に動き始めたせいで、じっとりと汗が吹き出る。出て行きい!とばあちゃんの鋭い声が聞こえたが、足音はだんだんと近づいてきた。
隣の部屋に通じる戸に手をかけたところで、男の声がいっそう強く耳に入る。かすれて、低くて、ぞっとするような声音。
「ようやく……」
追いついた、と男が呟いた。
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