心当たりのある場所にぶつかっていくしかない、という精神の元、風呂にも入らずまともに寝もせず探しつくし、あとはここしかないだろう、というところまできた僕の手の中には、小さな地図があった。
彼女の実家に連絡をして、不審がられないように必死に考え付いた言い訳で教えてもらった、彼女の祖父母の家。僕の家で暮らすようになってから、ろくに連絡も取り合っていなかっただろうから、そんな人たちのもとに行くことはないだろうと思って最後に回したのだが、裏の裏をかかれた気分だ。
さすがに歩き回って汗をかいて、二日近く風呂に入っていない状態では、気軽に人前に出れないようなことになっているだろうなと思って苦笑した。体のそこかしこが痒いような気もするし、頭なんかボサボサで、髭も多少。この状態で会社に戻ることはできないな、と思いつつ、ざりざりと掌を引っかく髭を撫でてみる。こんな顔、彼女にすらろくに見せたことがないと言うのに。
彼女の祖父母の家は山の奥まったところにあるようで、ここから車で行っても一時間ほどはかかるらしい。歩いて行ったらどのくらいになるだろうか。ちなみに、交通手段はすべて公共交通機関だったため、便利な車はここにはない。進むのは僕の両足のみである。
とりあえず、歩くついでに目に入った人たちに地図を示し、道を教えてもらい、を繰り返し、山の中に入っていった。人間相手であれば多少の争いごとはできる自信があるが、熊やその他の大型動物が出てきたらさすがに戦える気がしない。
と、思うほどに険しい山道を進み、既に圏外になっている携帯で時刻確認をしながら適度に休んでまた進んだ。このままであれば家に到着するのは日が変わってからだろうか。急げばそれより少し前に行けるかもしれない。さすがに、日付が変わるか変わらないかくらいのギリギリの時間に家に押しかけ、いるかいないかもわからない人物の存在を確認することはできない。
しばらく進んで、ぽっとあかりが灯る場所を見つけた。山奥と言っても同じように民家がいくつか建っているが、電気がついているのはあそこだけのようだ。地図や地元民の証言と照らし合わせても間違いは無いであろう、恐らく、あの家。あれが最後の希望。
無駄に騒ぐ心臓をなんとかおさえ、ゆっくり横引き戸を拳で叩く。控えめに叩いたのにやたらと響くのは、あたりがあまりに静まり返っているためか。
「………」
しばらくの沈黙。だが、かすかに建物内で人の気配を感じた。人がいるということがわかっただけで随分と安心できるものだ、と思いながら、誰かが出てくるのを待つ。田舎は都会と比べてセキュリティが薄いし、人の警戒心も薄いようだが、さすがにこんな時間帯に訪れては警戒されてしまうだろう。できるだけ好印象を与えるように、緩めていたネクタイを締めなおす。
数分ほどして、からからと乾いた音を立てて戸が開いた。中から、少しだけピリピリとした空気を纏った老婆が出てくる。老婆、と言っても随分と背筋はピシリとしていて、若々しく思えた。
「……夜分遅くにすみません」
会社名と名前を名乗ると、おばあさんは聞こえなかったのか確認するためか、どちらさんかね、と呟いた。もう一度名乗る。
「聞いたことない名前じゃなあ」
でしょうね。僕自身あなたの顔を知りませんし、名前だって聞いたことがありません。はは、と苦笑を浮かべた僕を怪しむような視線が撫でたので、急いで真面目な表情を繕って、なるべく声を潜めて問いかけた。
彼女の関係者であるということを明確に伝え、ここに来ていませんか、と。おばあさんが反復するように彼女の名前を口にして、しらじらしく続ける。
「……あの子なら、来とらんよ。用件があれば、伝えるけん、私に言い」
長年の勘、と言えばいいのか、ただの思い込みかはわからないけれど、多分嘘だな、と思った。視線をおばあさんの背後に滑らせる。やはり、玄関先にどう考えてもおばあさんが履きそうに無い若々しい靴が置いてあった。
それを指摘するか、しても上手くはぐらかされるかもしれない、ということを考えながら、どうしようかと思っていると、カタンと小さな音がする。おばあさんが立てた音ではない。次いで、聞き慣れたくしゃみが静かな玄関先に大きく響いた。
僕の顔を見たおばあさんが、しまったと言わんばかりの表情を浮かべる。
「……やはり、いらっしゃるんですね」
呟いて、戸を力の限り開いた。ガラララ、と大きな音が響くが、気にせずおばあさんの横を過ぎる。出て行きい!とおばあさんが何度も叫ぶ声が聞こえたが、膜を一枚張ったように声が遠く感じられた。石造りの床の上を進むたび、革靴がコツコツと音を立てる。慌てたようにガタガタと音がして、人の気配が遠ざかった気がした。逃げられる、と瞬時に察して、急いで靴を脱いで上がる。
「ようやく、追いついた……」
ようやく追いついたんだ。絶対に逃がさない。畳を踏んで、閉じられた戸を開く。追いかけてきたおばあさんに腕を引かれ、ぐるりと視界が反転した。その瞬間、視界の端に逃げていく若い女性の足が映る。
「待ってください!」
「出て行きい!」
彼女を追いかけようとする僕を必死に引き止めているのか、おばあさんがぎりぎりと僕の腕を掴んだ。女性、そして非力な老婆の力であればそう強くないはずなのに、畑仕事でもしているのか存外しっかりとした力で引きとめられて、下手に外すことができない。
「放してください、彼女を追いかけなければ、」
「うちの孫に、何をするんなぁ!」
僕が彼女に危害を加えるとでも思っているのだろうか、随分と必死なおばあさんにどう説明するべきか考えあぐねて、困ったように力を抜いた。もし無理に振り払ってこの人に怪我でもさせたら、彼女に合わす顔がなくなるからだ。
僕が急に動きを止めたからだろう、不思議に思って同じく力を緩めたおばあさんに、深く頭を下げる。
「……今だけは、見逃してください。誓って、彼女に危害を加えることはありません。事情は、のちに説明します。今だけは……」
「……」
どんな罵倒が飛び出してくるかと思っていたが、おばあさんは溜息を吐いて僕から手を放した。それを、了承の合図と受け取って、一礼したのちまた走り出す。廊下を歩くとドタドタと音が鳴り響いたが、僕以外に誰かが歩いているような音はしていなかった。つまり彼女が、どこかの部屋に逃げたか、屋外に逃げたか。そのどちらかだ。
部屋をひたすら開けていくなんてことはしたくなかったのだが、今回ばかりは申し訳ないがする。ことに、する。戸を開けては閉めて、ひとつずつ確認した。本当は閉める時間も惜しいが、さすがにこれだけ迷惑をかけて開けっ放しは自分で自分が許せない。
そのとき、廊下の突き当たり、一番奥の部屋からガラガラと音がして、誰かが庭に下りた。たし、たし、とはだしか草履か何かで歩いているような音だ。足音は軽く、それが彼女の足音だと気付くまでそう時間はかからなかった。急いで追いかける。しまった、靴は置いてきてしまった。だが、取りに戻る時間も惜しい。
「待ってくださいっ…!」
庭に下りて、石垣を上って行く彼女が見えた。寝巻き専用のものだろうか、シンプルな浴衣みたいなものを着た彼女が、大胆にも足を開いて石垣に乗り、僕を確認することもなく下りていく。彼女の走るスピードがさほど速いわけではないことを知っていたが、地の利は彼女にある。逃がしてはいけないと、僕も追いかけた。砂利が靴下越しに足裏を突き刺すけれど、気にしてる場合じゃない。
名前を呼んでも立ち止まらない彼女は、草履でよく走れるな、というスピードで逃げていた。それほどまでに僕に捕まりたくないと思っているのだろうか。それを考えると少しばかり、いや、大いにショックを受けるが、まずは捕まえて話をしないことには埒が明かない。彼女が逃げ続ける限り僕は追い続けるし、彼女が嫌だと言っても話をするまで僕は諦めない。
畑のようなところに出て、一気に見晴らしが良くなった。彼女の背中を追いかけながら、進みづらい土の上を走る。なるべく野菜を潰さないように慎重に動く僕と、慣れていると言わんばかりに土の盛り上がりを丁寧に避けて走る彼女。距離が、縮まるどころか離れていく。
「待ってください、ったら!」
こんなときは残念なばかりに、僕は都会育ちだ。畑の上を走り回った経験など勿論なく、田んぼだって見つけたら新鮮なくらいで。だからこそうまく走ることができず、盛大に転んで、土が襟首から服の中に進入する。ズボンが汚れて口の中にも少し入った。
うわっ、と声を上げた僕に気付いたのだろう、少しだけ立ち止まった彼女が振り返り、倒れた僕を見る。何か言いたそうに口を開いたが、逃げることが先決だと思ったのか、ここぞとばかりに走り出した。
「待っ、」
起き上がって、また追いかける。畑を抜けるとアスファルトの道で、ここはなんとか走ることができた。もつれそうになる足を叱咤して進み、待ってくださいと何度も声をかける。次第に小川が見えてきて、その小川にかかっている小さな橋を彼女は小走りで駆けて行った。かと思うと、すぐ脇に繋がっている階段から、うまいこと用水と小川をわけている溝の、石でできた仕切りに下りたち、そこから逃げていく。彼女の小さな足であれば余裕があるが、僕が進む分には少し狭い。
「待ってください、って!」
足を踏み外して小川に落ちて、盛大に左足が濡れた。これで革靴でも履いていたら大惨事だったな、と思いつつもういっそ小川に両足をつけて走る。が、ぬるぬるとして進みづらい。無駄に両足が濡れただけに終わった。
彼女はひょいひょいと溝の端を移動したり、仕切りの上を走ったりとしていたが、ふいに小川に飛び込み、用水を吐き出す口の上に足をかけてひょいと上っていった。
「な…!」
僕も急いで追いかける。彼女が進んだ道は、よりにもよって滑りやすい、藻だらけの場所だった。お約束の展開で滑り、わき腹を強く打つ。し、ドブ臭い。小川と言っても臭いものは臭い。水はいつだって綺麗だなんて思っちゃいけないな。
石でできた吐き出し口の上に乗り、上にあがると、既に彼女は駆け出して遠くまで向かっていた。彼女がどこに進もうとしているのかはわからない。追いかけなきゃ、と勢いづいた瞬間、靴下に付着していた泥ですべり、草の生えた地面の上に伏せる。
あまりの衝撃に、瞬間的に目を瞑った。じんじんとする体をさすりながら起き上がり、急いで彼女の姿を探す。目を瞬かせた。
彼女の姿は、もうどこにもなかった。
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