見つかった。見つかった。見つかった!
ざくざくと草の上を駆け、心臓の音でやかましい耳を押さえ込む。頭と下半身が別の生き物のように対称的だった。だって、頭はがんがんと痛くて心臓の音が激しくてやかましくて、視界はたまに赤に染まってちかちかとまぶしいのに、足だけは冷静に逃げ道を探して進んでいるんだ。おかしい。非常におかしい。
途中からたぶん、草履は脱げた。足の裏の感覚がないのでよくわからないが、土でざらざらしている。あと、ちょっと、血も出ている。重ねて言うが、感覚がない。ので、痛くない。

今は何時ごろだろうか。時計がないので全くわからないが、日付は越えただろう。あたり一面真っ暗で、田舎ゆえに明かりがない。百姓ばかりが住む区域のせいか、早寝早起きの傾向が多く、そのため民家の明かりも全くなかった。暗い。
しかしこの暗さは逆に、古泉から身を隠すための隠れ蓑になるのではないかと思われた。今着ている浴衣みたいなこれの色は、白地にうっすら黄色のグラデーションがかかっているもので、どちらかと言うと闇夜に浮きやすい。だが、月さえ木々に隠れてしまうので、光が全く差さないのだ。目立ちようがない。
とは言え、おれも人間だ。真っ暗な道の中では、まっすぐ歩くことも困難で。

「う、わっ」

左足首に木の枝が引っ掛かって転ぶ。驚きのあまり漏れる声を抑えるべく、口元を両手で覆った。声が出てから抑えてもあんまり意味はないが。
転んだ衝撃で口の中を切ったのか、右頬あたりがじくじくと痛い。あと、ふくらはぎにひきつるような痛み。些細なものではあるが、たぶんけがをしているんだろうなあ、と予想する。
寒い気温で足にできた痛みは鈍っていったが、口の中だけはどうしようもなかった。舌先で舐めると変な感覚がして、遅れて痛みがやってくる。ええい、舐めていても仕方がない。立ち上がって走る。
古泉が追いかけてくる足音はしなかったが、それでも逃げた。開いたぶんの距離だけ、見つかるまでに時間がかかる。もっと逃げたい。遠くへ。
なあ、なんで追いかけてきたんだ。



暗いながらも、闇に目が慣れてくると、見慣れた道を進むことができる。確かあっちに行ったら行き止まりで、こっちに行ったら民家があったはずだ。申し訳ない気持ちはあるけれど、庭を通らせていただこう。元来た道を引き返すという選択肢は、ない。
だいぶ乱れた着物を無理に手繰り寄せて適当に直し、さっさか庭に入り込んだ。まだ暗い。どのくらいおれは歩いたのだろうか、確実に一時間は歩いたと思うけれど、それでもまだ一時くらい、いや、よくて二時くらい。
この時間帯にこんなところを歩いた経験など勿論なく、これからどうするのかということも決まっていない。とにかく、この地を離れなければならない。財布の入った鞄だけでも取りに戻ることができたらとは思ったが、それを見越した古泉が待っている気がして、どうしても引き返すことはできなかった。
そうだ、たぶん古泉は、待っている。

(ならおれにも、考えがある)

古泉の思考の、裏をかくのだ。あの家に戻ればいい。古泉と過ごした、あの家へ。
いい思い出など遠い昔、きっと戻れば切ない気持ちになるのは必至だろう。けれどそうじゃない、そんなことを気にしている場合じゃない。
あいつはきっと、おれが、古泉に見つかりそうな場所には絶対に行かないであろう、と考えているに違いない。だから、一番の盲点である、あの家へ戻るのだ。
ほとんどの荷物を置いてきた。服だってたんまりとある。念のためとわずかな金も、洋服だなに入れている。ささっと戻って一回シャワーを浴びて、もう一度身支度をして、今度こそ見つからない場所に逃げよう。

だとすると、どう行こうか。電車を使ってようやく戻れるくらいの距離ではある。けれど、今の時間では、電車は動いていない。おまけに田舎だから、動きだすとしても本数は少ないし、おれが電車を使って逃げるのではと待ち伏せされるのもありえない話ではない。
ならば、今、電車が動いていないときに、レールの上を走って行けばいいのではないだろうか。危険かもしれないが、こうも暗ければ、何か来たときによりわかりやすいだろう。
そうと決まれば後は行動するだけで、おれは着物をぐい、とあげて足を露出させた。走る。下り坂のおかげでスピードがでて、風がきもちいい。下りのほうが足にかかる負担は大きいそうだが、まったく感覚がなかったので気にならなかった。

はあはあと、どうしても切れる息をなんども押さえ込みながら、慣れた道を通って駅に向かう。無人駅の改札を抜けて、レールの上に飛び降りた。がつっ、と鈍い音がして、足の裏をまた傷つけたことを悟る。正直どこまで傷が広がっているのか見たくないので、足は見ない。家に戻ったら、消毒しなけりゃならないな。

家に帰る、とは、言いたくなかった。あそこはもう、おれの家じゃない。そもそも、おれの家じゃなかった。古泉の家で、おれが勝手に住まわせてもらった、だけ。ここに住めと言ったのは古泉だったけれど。
だからおれは、家に戻る。戻って、そしてまた出て行く。それだけ。深く考えるとどんどん暗いところへ落ちてしまいそうだから、何も考えずにどんどん進む。
きぃー、と鳥が鳴いた。もしかするとあの高いのは、梟かもしれない。肉眼で見たことは幾度かあるが、声を聞いたことはあまりない。ばあちゃんの家の隅っこで死んでいたネズミを木の上に横たえておいたら、翌朝なくなっていた、ということはあるから、一応この付近に生息はしているのだろう。いや、それが梟であるという保証はどこにもないが、なんとなく。
近くで見たら、どんな姿をしているのだろう。見てみたいと、思う。こんなときに場違いも甚だしいと自分自身に突っ込みを入れたりするが、そんな風にどうでもいいことを考える、それがとても尊いように思えて、おれはおれ自身に、思わず苦笑した。

『待ってください!』

「っ……」

背後から声をかけられた気がして、思わず足を止める。振り返っても、暗闇には誰の気配もなく、聞こえた声は幻聴だったと気づいた。何度も何度も背中にかけられたあの叫び、頭の中に残って仕方がない。ぶるぶると頭を振って声を散らしても、網膜に焼きついたあの切ない顔が離れてくれなくて。
気持ち悪い。

「っ、はあ、……はあ」

かたいレールの上をとんとんと進んでは、時折立ち止まり、しゃがみこんで息を整える。このペースで行ったら、早朝か、そのあたりには行けるだろう。電車より早いペースで行けるはずがないので一応目標と言ったほうがいいかもしれないが。あまり遅くなると誰かに目撃される可能性も出てくる。
途中の停車駅の改札を抜け、前の駅からずっと続いていた小川に向かう。飲み水には使えないだろうが、せめてもと足を浸けた。遅れてびりびりと痛みがやってくる。

「ってえ……」

吐く息が白く、怖くなって急いで足を抜いた。足裏を着物に押しつけて拭うと、足回りが薄い赤に染まる。
いたい、いたくない、さむい、さむくない、こわい、こわいはずがない、きもちわるい。立ち上がり、最初はゆっくり、途中からペースを上げて、ぱたぱたと走る。何も考えたくなくてもっと走る。今ならフルマラソン行ける気がする、なんてことを考えながら、何度もつまづきそうになる足もとをおさえた。

さみしい。さみしくない。
古泉のことなんて、考えない。