もうどのくらい歩いただろうか、それすらもわからない。見慣れた景色につい体の緊張感が抜けて、何度か転倒したことは覚えている。
既に空は白みがかっていて、犬の散歩やジョギングに出ている人もちらほら見えた。ただ、薄暗さは残っているから、まだ五時六時かそのあたりだろう。六時はないか。
とにかくこの、恐らくは後ろまで泥だらけで、おまけに足元は若干血に染まっているうえ、外出には適さないこの着物姿を誰かに見られるわけにはいかないと、姿を隠しつつ家に向かった。運の良いことに、古泉の家はほかの民家よりいくらか離れたところに建てられているため、人通りもあまりない。そそくさとコンクリートの道を走った。

「こーら、そっち行っちゃだめ!」

突然後方から聞こえてきた声に肩が跳ね上がる。軽い足音とともに、横を犬が通り過ぎて行く。誰かが近づいてくる、と察して急いでゴミ箱の横に隠れ難を逃れたものの、出ようとした瞬間先ほどの犬を抱えた、飼い主と思しき女性がまた戻ってきた。
うわあああ、とまたゴミ箱の横に隠れる。ゴミと間違えられても仕方のないくらいひどい状況が、今はありがたいようなありがたくないような。

「……行った、か……?」

小さくつぶやいて立ち上がり、あたりを見回す。たぶんもう、誰もいない。あと歩いてたった数分だと言うのに、こうも精神疲労を負わねばならないとは。切ない気分だ。
また誰かがきたときに即座に隠れられるよう、ゴミ箱のふたでも頂戴していくべきだろうか。そんなどうでもいいことを考える暇があったらさっさと家に入るほうが得策だな、うん。




……とは言っても、もう、身体的にも、精神的にも、疲れた。足の痺れは極限まできているし、正直少し眩暈がする。おなかはすいたし、眠りたくもあって、風呂に入ったらすぐ発つどころか一休みしてしまいそうだ。ああでも、古泉がこの家に来るはずがない。だから、一休みくらいしても、大丈夫なんじゃないだろうか。きっと許されるだろう。いいや、許されて然るべきだと思うね。うごかない、疲れ切った体をひこずって、玄関前まで向かう。見慣れない自転車がすぐ横に倒れているのを見かけた。ああ、おれが少し家にいなかっただけで、ついに不法投棄までされるくらいになっちまったのか。おれがこの家にいたら、きっとそんなことは。ちがう。変なことを考えるな。思いながら、門に手をかける。開ける。いや、正しくは、開いていた。

目を見開いた。固まった。

「……おかえりなさい、でいいんでしょうかね」

そんなまさか、と、考える余裕すらほぼない。なぜ、目の前にこいつが。頭の中が真っ白、となるべきなのだろうか、ここは。真っ白なんて色じゃない。表現できない。ただ限りなく、透き通っているような、つまりはまあ何も考えられないわけだが、どうして。わけがわからない。
たぶんおれは、後退っていた。ほぼ無意識に。がくんと膝から力が抜ける。今頃になって疲れが全身を襲ってきたのだ。実に忌々しい、体は逃げたがるのに動かないとは。
後退るおれに一歩足を進めてきた古泉が、ぼさぼさの髪の毛を手櫛で整えながら吐き捨てるように言う。

「ええ、そりゃあもういろいろと、ね。探しましたよ。ああ、そのあたりの話はいりませんね。とにかく、昨日あなたを見つけてから、僕も考えたわけです。絶対あなた、僕の考えの裏を読もうとするでしょう?だから、ね。僕もさらにその裏をかいてみました」

うそだ。お前はそんなに察しがいいやつだったか?

「まあ嘘ですけども」

嘘かよ!

「あなたのお祖母さんがね、たぶんあなたならこうするだろうという行動パターンを教えてくださいまして。何通りか逃げ場の候補が上がったんですが、賭けてみました」

さも当たり前のように言われた言葉に、今度こそ頭が真っ白になった。ばあちゃんが?手伝った?古泉を?
どうして。
絶句するおれに、好機とばかりに古泉が詰め寄ってくる。ずるずると尻這いで逃げるおれの足もとにしゃがみこむと、長い腕をぬっと伸ばして足首を掴んできた。ぎゃっ、とやや大きめの悲鳴が上がる。なるべく静かにしてくださいなんて言われても出るものは仕方がない。
何よりも、触れられて、古泉に体の一部を掴まれたというだけで、心臓のどこかがざわりと震えたことに驚いた。わけのわからない感覚だが、限りなく恐怖と快楽に似ていた。知りたくなかった。恐怖に打ち震えているのか触れられたことに喜びを感じているのかその二択に限られるなんて、気づきたくもなかったとも。

「ここ」

おれの足をつかんだまま、古泉がぽつりとつぶやく。怪我してますね、そう言われて、はじめて自分の足を見た。なるほど確かに、ざっくりと切れているところもあれば、皮膚ががさがさにすりむけているところもある。そりゃあれだけ痛めつけるようなまねをしたら、こうもなるだろうよ。傷を認識して改めて痛みを思い出した足は、今更じくじくと痛みだした。疲れプラス痛みで、もうその感覚すら、あいまいでわからない。
すり、と筋張った指先で傷をなでられて、意味のわからない悲鳴が出る。粉と化した血液がそこにこびりついて、いくらか肌の上を滑って落ちて行くのが見えた。

「……消毒、しましょうか」

肩が震える。足から手を放した古泉は、あっと言う間におれの腕へと手を伸ばし、自分の方へ引き寄せてきた。おびえて逃げるおれに気づき、いささか乱暴に俺を引っ張り上げる。がくがく震える足は、もう限界だと言わんばかりに痺れていて、ろくに動きもしない。
開いた門の中へと古泉が進む。うそ、と口からこぼれた言葉に気づいて振り返った奴は、何がうそなものですかと呟いてさらに俺を引っ張った。かんかんと頭に響く警戒音と、どくどくとやかましい心臓と、しにそうなくらい鈍い痛みが心臓を襲って、涙が出そうだ。

「いやっ、だ、…いやだ!」

「なぜ」

なぜって、そんなの。
とにかくいやだ、と体をよじって古泉の手から逃れる。バランスを崩して背中を打ち付けた。コンクリートはおれの体を優しく受け止めてなぞくれず、強烈な痛みをおれに与える。古泉が何かを言った気がした。伸ばされた手をぶん殴って、もう一度起き上がる。信じられないくらい体が動かない。でも、動かないという感覚を裏切って、足は勝手に逃げた。よろよろの体はまた傾いて、塀にぶつかって、倒れて、それでも起き上がって、とにかく古泉から逃げようとする。その体にまた古泉が手を伸ばし、掴み、引き戻そうとする――攻防。こわい。いやだ。何が嫌なのかももういまいちわからない。
ばたんと倒れ込んで、古泉がおれの片手をつかんだ。それを利用して、今度はコンクリートに引っ張り込んでやる。バランスを崩す古泉なんて滅多に見れない、つまりはそれほどこいつも、疲れているということなのだろう。
また起き上がって、ほぼ一歩分進んだだけでまた倒れる。痛み、もう、よくわからん。神経死んでるんじゃないのか。

「いい加減に、しなさい!」

それが誰のせりふだと。
怒鳴りつけてやりたいのに、もう言葉にもならなかった。ひたすら痛みに似た感情がおれの胸を殴りつけた。背中側から伸びてきた手がおれの肩を掴んで、無理やり古泉のほうへと向きを変えさせられる。よろよろのネクタイと泥だらけのワイシャツ、いつもはズボンの中に入っているはずの裾はでろりと出ていて、ああおまえそういえば、靴、どこにやったんだ?
混乱で頭は真っ白で、もう表情も見えない。

「っくそ……!」

なんだ、人に向かって糞便の名を呼ぶとは失礼な。震えて声が出せないおれを一度抱き込む。突然のことに息をのんだおれをすぐに離した古泉は、おれの片腕を掴んで今度こそ門に入って行く。抵抗して腕を振れば、振り返ってきたそいつは手を伸ばしておれを抱えあげた。
お姫様だっこなんて恥ずかしい響きはどこにもない、米俵と同じ扱い。なんという仕打ち。今度は、先ほどとは違う意味で絶句する。

「はなせ…!」

左膝で思いきり脇腹を蹴りあげたのに、軽く唸っただけで古泉はおれを放さなかった。体中がくたくたで、ろくに抵抗する力ももう残っていないというのに、おれもしつこいものだ。左手を振り上げて今度は胸を殴りつける。肘で喉を狙ってやろうかと思ったが、それはさすがに可哀想でやめた。まだ良心が残っているのだと、自分自身に驚愕する。
太ももが触れる背中が、ひどく汗ばんでいることに気づいた。べちゃべちゃだ。雨降ったっけ、と思わず考えるが、ここに来る道すがら、濡れているところはどこにもなかったことも思い出す。だとするとこれは古泉の汗ということになるのだが、それにしてはかきすぎだ。汗を。
まさかこのさわやかくんが、ここまで汗をかくはずがない。思いながらもう一度蹴る。もういっそ落とせ、と叫んだ。痛い、と一言つぶやいた古泉はそれでもおれを離さず、器用にポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
抑えつけられた腰元がひどく熱い。いやだやめろと、今度は声にして叫んだ。古泉は何も言わなかった。ぼやぼやする視界の端で、コンクリートにしみができていることに気づく。雨?まさか。そんなはずがない。ああつまりはおれが泣いているから。

泣きそうなくらいここが嫌?と、自分に問いかける。いまだに、なぜ、どうして、なにがいやなのかははっきりとわからない。ただ漠然と、古泉に触られたことと、この家に入れられるということが感情を刺激して、全身が拒絶して、泣いているのだということはわかった。
だとするとやっぱりそれが嫌なのだろうと思うくせに、違うんじゃないかと否定する自分もいて、ああもう意味がわからない。

古泉が足を一歩踏み出して、べちゃりと音をたてて家に入った。泥と水だらけの靴下を器用におれを抱えたまま脱ぎ、なんとスラックスでそれを拭う。もともと汚れていたスラックスはさらに薄汚れ、たぶんもう二度と使うことはできないだろうなとなんとなく思った。

「ねえ、」

答えてなんてやらない。さっきまでの扱いがうそのようなやさしさで、古泉はおれを下ろす。たたきに乗せられた体は、もうそのまま倒れ込んでしまいそうで、それを自分で制することもろくにできなかった。
それでも古泉がおれの両肩を掴んで固定しているから、倒れることはない。顔をのぞきこまれないように、いっそ首が痛くなるほど俯いて、視線から逃れる。頭の中に流れ込んでくる昔の記憶を追い払うように首を振れば、涙がばたばたとそこらに散った。なにも見たくない。何も。

「おかえりって……」

至近距離で、古泉がつぶやく。逃れるスペースなどどこにもない。否応でも耳に入ってくる、せっぱつまった声と、肩に伝わる微振動。

「おかえりって、言って……」

まるで子供が母親に甘えるような、いや、それにしてはひどく年齢が違いすぎていたが、同じような響きで懇願されて、肩口に額をうずめられた。ひどい汗のにおいと、泥と、その他もろもろの悪臭の中に、それでも古泉のにおいを見つけて、意味もわからず涙がぼろぼろ流れ落ちる。たぶんおれも似たり寄ったりだがもう知らん。
ひげの生えた古泉なんて、見たことがなかった。こんな情けない古泉、見たことがなかった。初めて知ったあらゆることを、受け止めるスペースがぎゅうぎゅうで、キャパオーバーもいいとこだ。そんな限界の状況でおかえりって言えなど、無茶にも等しい要求だ、いっそ金でも払えよ。ああ何を言ってるんだおれは、どうしたらいい、わからん、わからん。

何も言えないおれの口からは、小さなこどもみたいな嗚咽がかわりについて出た。背中に伸びてくる腕を拒絶もできなくて、それがどうしてなのか、振り払いたくないからなのか、体が動かないからなのかも判断できなくて、混乱の極みに陥って、だから。だからだ、他に理由なんてない。
あいつの背中に腕を回した理由なんて、もうわからん。