ああやっぱり、彼女がいなければだめなのだなあと思うと、心臓がしくしく痛んだ。荒みきった砂漠のような気持ちが、とろとろと流れていく。瞼を伏せれば彼女のにおいがして、でもなんだかごみのにおいとか、汗のにおいとか、その中に鉄錆のようなにおいもあって、切ないやら、痛々しいやら、申し訳ないやら。たくさんの感情が綯い交ぜになって、どこか落ち着かない気分だ。




もしも彼女が見つからなければ、大人しく職場に戻ろう――という気持ちは、さらさらなかった。彼女を見失って、途方にくれて、でももしかすると、という希望を捨てきれずに戻った彼女の祖父母の家では、ずっと彼女の帰りを待っていたらしいお祖母さんと、目覚めた(あるいは、お祖母さんに起こされたか、騒動で自主的に起きたのか)らしいお祖父さんが、縁側に座っていた。

「古泉、一樹と申します」

取引先に対して癖になってしまったような自己紹介を、まず真っ先に行ってしまったのは、もう最低最悪の失態だと思う。まず何よりも真っ先に、彼女を見失ってしまったと、報告するべきであったのに。
けれどお祖母さんもお祖父さんも、何も言わなかった。そうか、古泉くん、とやけに迫力のある低い声を出したお祖父さんが、まあ座んなさいと彼の膝の横をたたく。

「失礼、します」

思った以上に憔悴しきった声が出て、そんな自分自身に驚いた。お祖父さんは僕を一度も見ないまま、膝の横に立てかけていた杖を足と足の間に立て、そこに手をのせ、顎をのせ、どこか遠くを見つめる。庭に無造作に落ちている草履は彼女が落としたものだ。片方。
お祖母さんが立ち上がって、数分も経たないうちにグラスをふたつ持って戻ってきた。無言で差し出されたそれを受け取り、口をつける。こくこくと喉を流れていった冷たい麦茶、予想以上においしくて、息もつかず一気に飲んだ。すかさずお祖母さんがおかわりを注いでくれて、礼もそこそこにまた一気に飲む。食道をひんやりと駆けて行く冷たさ、切ないような、物悲しいような、言葉にできない感情が、その冷たさと入れ違いで腹から沸き上がってきた。

「……ごめんなさい」

ほーほーと、何かの鳴き声が聞こえる。あれは鳥の鳴き声だろうか。からす?は少し違う。ふくろう、ああ、梟か、いやでも、本物は見たことがないし、鳴き声も、わからない。ほとほととグラスから落ちて行く水滴が、既にずぶぬれのズボンにしみ込み、また、鳴き声がして、僕は。

「申し訳、ございません」

ぼさぼさの髪の毛、中途半端によれた服、泥だらけのズボン、緩みきったネクタイ、こんな姿で彼女の身内に会うなど。想像もしていなかった、するつもりもなかった。ほーほーと鳴き声。バカにされているような気がして、うつむいた。
何を、謝っているんだろう、僕は。まるでこれは、上司に怒られたときに、僕の何が悪いんだと思っているときの心無い謝罪。汚らしい。薄っぺらい。あさましい。コップを指先で握ると、力が入らず滑った。落ちそうになるそれを必死に留めて、縁側に置く。きれいな色をしたそこは、いい手入れをされているのだろう。視線を戻せば庭のそこ、暗がりがごそごそと動いて、ねずみが走って行くのが見えた。
立ち上がり、二人の真正面に座り込む。べちゃんと音がしたのは泥のせい。汗をかいたコップを握っていたせいで手のひらも濡れている。それを地面にのせると、手のひらに砂利がたくさんついた。
頭をひっそりと伏せて、砂利に額を押しつける。伸びた前髪が緩衝材となって痛みはあまりなかったけれど、少しだけちくりとした。頭かも、心臓かも、わからない。

「……本当に、ごめんなさい。あなたたちのお孫さんを、見失って、しまいました」

とぎれとぎれにそれだけ呟く。返ってきたのは沈黙。
一分待った。二分待った。三分待った。四分目。顔をあげる勇気はなくてずっと地面に押しつけたままでいると、砂利をならすような音とともに、僕の肩にそっと手が触れる。まるでナナフシのような手。腕。それでも力強いそれに、ぐっと身を起こされる。

「きみが謝るべきは、そこじゃなかろう」

お祖父さんはそう言って、すこしだけわらった。
お祖母さんは無言でお茶を注ぐ。
僕は、僕といえば、ただ無言で泣いた。

ほーほー、という鳴き声が消えたと思ったら今度は、ちりりり、ちりりり、と虫が鳴き始めた。グァーグァーと聞こえるのは何の鳴き声か。涙腺やらあれこれが緩んだ僕の顔は、よく使い込まれたタオルで一度拭かれて、少しだけ綺麗になっている。
再び縁側に座り込んだ僕は、タオルをぎゅうと握りしめて、たくさんのことをかみしめていた。

「あの鳴き声は、うしがえる」

お祖父さんが指先を伸ばして、どこか遠くを指差す。うしがえる、と繰り返すと、うんうんと頷く。どうして僕が聞きたいことがわかったのだろう、ぼんやり考えていると、まるで幼い子供を見るような……現実僕はお祖父さんからしてみれば、幼い子供だろうけれど、そんな目を向けられた。

「あの子もな、こんなにちぃちゃい頃な、あの鳴き声を聞いて」

座った状態での腰の高さくらいを示しながらお祖父さんが笑う。

「あれなーに、あの音なーに、て聞いてきてなあ」

あれなーに、あの音なーに、そうやって無邪気に笑う彼女を想像して、また涙が出てくる。なんで泣くんだろう、意味がわからない。しくしくとまた胸が痛む。お祖母さんが、思いだすかのように目を細めて、おかしそうに笑った。そんなことも、あったなあ。うん、あったあったと、二人でしきりに笑う。

「古泉くんの目がなあ、そのときのあの子の目によく似とって」

あれなーに、あの音なーに。
たくさんのことが気になる。たくさんたくさん、彼女のことが気になる。知りたがりのくせに、何かに怯えて何も聞き出せない。僕は、未知の感情に怯えて、また泣いた。ふんわりとあたたかい風が流れてきて、あとを追うように涼しい風が頬を撫でる。
夏の夜は、すこしだけさみしい。




もし彼女が見つからなければ、そんな仮定はやめた。
どこまでも追い続けようと決めた。
彼女が見つからない、いないこの世界などやっぱり、苦しくて、痛々しくて、狭苦しくて、どこに身をおいたらいいのかもわからない。
仕事ばかりに明け暮れていたころの自分を思い出して、どうして我慢できていたんだろうとさえ思える。あのあたたかい、やわらかくうつくしいあの人を、どうしてないがしろにできたんだろう。

あのこが行くのならばきっと、という仮定を漏らしたお祖母さんに何度も頭を下げ、候補を絞っていくうちに、僕の家ではないのだろうかという考えが出てきて、それが一度出るともう他には考えられなかった。彼女に吸い寄せられたような気もした。もしこれで、もしこれで彼女が僕の家に戻ってきたら、そのときは、と、いろんなことを考えた。
彼女のお祖母さんに借りた自転車で、めちゃくちゃに走って、もう膝が笑いだす頃に、家に着いた。彼女が帰ってきた形跡はなく(それも当然だ、だって彼女は移動手段を徒歩以外に持たない)、僕はそっと玄関先に腰を下ろした。もうきちんととめることすらできなかった自転車は音をたてて倒れ込み(あとで弁償しようと思った)、コンクリートとキスをする。あーキスしたいなあとおもった。彼女と。噛みつきたい。彼女に。もうそれは、野獣のように。

もし、今日一日この家の前にいても誰も来なければ、終わりかもしれないな、と思うと、切ない気持ちや悲しい気持ちよりもまず真っ先に闘争心がわいてきた。そりゃあ意地でも見つけてやるとも、という妙に強気の気持ちが。でもきっと絶対彼女はここに戻ってくる。じゃなきゃあこんなに気持ちがふわふわしたりしない。確証もないのになぜか確信している。

「……おかえりなさい、でいいんでしょうかね」

ほら、やっぱりね。




彼女を抱きしめて、腕の中に彼女がいるんだと改めて認識したら、もう止まらなかった。心臓の痛みが、そこで止まった。やわい肉の感触がたまらなくて、ぎゅうぎゅうに抱きついた。彼女の足の怪我よりもまず真っ先に欲望を優先した僕は、罵られて然るべきだと思う。
でも、彼女が背中に腕を回してくれて、もうそれだけで、天国とか楽園とか、そんなところにも行けそうな気持ちがして。ああ幸せだもう泣けそうだ、そう思った。顔を覗き込んでキスしようと、腕の力を緩めて、顔を、

「……――」

名前を呼ぼうと、した。

「……っいった!」

盛大に殴られた。背中を一発。ぼぐっと鈍い音がして、力が抜けたところをまた一発。
むちゃくちゃに身じろぎされて思わず腕を離すと、腕から抜け出た彼女が泣きながら僕を真正面から殴った。まず頬に一発(しかも拳)、次いで脳天に一発(またも拳)、さらに腹に一発(今度はまさかの足)、思わず尻もちをついた僕を見下すように立ち上がった彼女は、ふらふらのまままた足を振り上げ、僕の肩を蹴りあげた。これはもしやいわゆるひとつのドメスティックバイオレンス、と、思う間もなくもう一発(今度は膝の関節に彼女の踵が)。
もはや茫然。唖然。開いたままの口が閉まらない。少しロマンティックな展開を期待したところを固まった氷に例えるとすれば、それをアイスピックで盛大に砕かれたような。
まさかのタコ殴り。

「なにをっ……するんですかあなたは!」

「うるさい!」

泣きながら彼女が、手当たり次第に靴を投げてきた。そう言えば玄関先だったな、と思いながら、向かってくるコンバースのスニーカーを腕で受け流す。さすがにピンヒールが飛んできたときは顔をかばった。僕の予備の革靴は重くて痛いし、案外靴って殺傷力高いな、と思っていたら今度は靴べらが飛んできて、まさか、と思っているとさらに今度は靴磨きを。ただの靴磨きじゃない、お徳用の缶入り、ものすごくでかいサイズだ。これはさすがに腕でガードしても痛かった。
投げるものが尽きた、よし、と思っていたら彼女はばたばたと靴箱を開いた。頭の中でカーン、とゴングの音が鳴る。いや僕に攻撃意思はないので、彼女が一方的に投げるだけだけれども。痛い。ポリッシュとか痛い。お徳用の缶入り靴磨きより痛いものはないと思っていたが、案外皮のブーツも痛かった。至近距離で投げられたらどんなにペラいものでも痛いものだとぼんやり考えながら、靴まみれの周囲を見下ろす。彼女はきょろきょろとあたりを見回して、なんと観葉植物に手をかけた。さすがにその鉢は耐えきれる自信がない!

「もうやめてください!」

「や……だぁ……!」

靴の海からなんとか立ち上がって、重たそうに鉢を持ち上げる彼女に抱きつく。どかんと音がして二人して廊下に転がった。鉢からこぼれ出た土がフローリングの廊下にばしゃりと流れ出る。掃除が大変そうだ、と思う僕をまた彼女が殴りつけた。まだ少し土が残っている状態の鉢で。これは痛い。

「はなせはなせどけぇ、どけったら!」

「いたい、痛いですってば!」

今まで生きてきた中でここまでボコボコにされたことなどあっただろうか、いやない。自慢するわけではないが、僕はそれなりに喧嘩に強かった。今だって、彼女の腕を押さえつけて動きを封じ込めることは可能だ。でもそれをしないのはなぜか、疲れがたまっているから――だけではなく、それをしたらきっと、彼女は本心から僕を嫌うだろうからと、ここまできて怯えたから。
ぽろぽろ涙をこぼしながら僕を殴る彼女は、いやいやと首を振った。申し訳ないが、子供がする動作みたいで、とてもかわいらしかった。ついにはひんひんと嗚咽を漏らし、力の抜けた拳でぽかぽかと僕の頭を殴る。僕はと言えば、彼女を押し倒しているこの状況にわずかばかり興奮したり、不謹慎なそんな自分に恥じたり、どうやってこの現状を打破しようかと考えたりしていた。
ここ最近ずっと触れていなかった彼女の腹部はがりがりで、腰がひとまわり小さくなってしまったように思えて、胸が切なかった。またしくしくと痛んだ。
ひっく、ふぇ、と涙を流す彼女を見て、僕も泣いた。僕が泣いていることに驚いた彼女の目が、正面から僕を見ているという事実がなんだかもうたまらなくて、それはもう唐突にキスをした。さっぱりわからないと言わんばかりにぱちくりと瞬く瞳が、悲しそうに細められて、申し訳なくて、彼女の上から退いて、土下座した。こんなに短時間で土下座を何回もすることなんて、そうそうないだろう。でも土下座した。
彼女はやっぱり意味がわからないと言わんばかりに瞼を上下させて、声を上げて泣いた。早朝のできごと。