ふぐ、ひっく、うぇ、と奇妙な嗚咽が落ち着いてきたころ、ようやく視界も落ち着いてきた。ぼやぼやと涙で歪んでいるが、なんとなくそこにあるものがなんなのかは理解できるくらいには。次第に涙が引いてきて、わりとはっきりものが見える程度に回復した。
よくわからんが、古泉が土下座している。そして、泣いている。泣きながら土下座している。あーなんで古泉が泣いてんだ、よくわからんがかわいそうだと思った。だって古泉の泣き顔ったら、ええと、アレなのだ。幼い子供がおイタをして、親に押入れに閉じ込められ、恐怖感に負けてぐしゃぐしゃに泣いてしまったときの、あれ。なにがそんな悲しいのかはわからんが泣くなよ、お前が何か悪いことしたかよ。……いや、やった。やったな。やりやがったこいつは。やってはいけないことをやった。
泣きすぎてパニックになると、頭の中が一度真っ白になって、それから再び思考を構築していくまでに時間がかかる。そのタイムロスのせいで、おれは古泉にろくな言葉を言うこともできなかった。一度タイミングを逃すと、もう次にどんな風に言えばいいのかわからなくて、今更言っても、というくらいのころ合いになると、言わない方がいいのかと言葉をしまいこんでしまう。
なあなんでキスしたんだ、と問いかけるだけなら楽だった。だから、そのタイミングを逃して、どうしたらいいのかわからなくなった。うわんうわん泣いている古泉に追い打ちをかけたら、植木鉢に頭突っ込んで死んでしまうのではないかと思った。そのくらい動揺を誘われる泣き方だった、のだ。
唇の柔らかさは、さほど変わっていなかった。ただしひどく荒れていたせいで、それが唇なのだと認識するまでに時間を要した。そう言えばキスをしたのはいつ振りだろう、顔を合わせたのもついこないだのこと。それも意図したものではなく、つまりそんな仲睦まじい接触など、記憶のはるか彼方のことで。
久々の古泉の唇は決して悪いわけではなかったが、良いものでもなかった。唇から伝わってきたものがおれにとっていいものではなかったから、うん、そうだ、そうである。
「ごめんなさい、ごめんなさいっ……ごめ、」
うぇ、と嗚咽を合間に挟んだ古泉を見下ろしながら、唇を袖でこしこしと拭った。布の繊維に擦れた唇の皮が少し剥がれて痛かった。頬を手のひらで押さえると、少しだけ熱を持っている。ぴたぴた触れながら熱を少しだけ下げて、耳を押さえた。
古泉の謝罪を聞きたくなかった。自分ばかりそうやって、一方的に何かして、謝ってばかりで。そうやっておれが許してくれるのを待って、許されたらまた一方的に、そのループ。もううんざりだった、逃げたかった。でも逃げる空間はここにはなかった。だから耳をふさいでこの空間から意識だけ逃避した。涙が完璧におさまって、頬の熱も引いて、頭もわずかに冷えたころ、いつになってもおれから何のお咎めも言葉もないことに気づいた古泉が顔をあげて、絶望的な顔をした。ばかみたいなかお。
キスよりもごめんなさいよりも、もっと先に言うべき言葉はあったんじゃなかろうか。答えを提示することはできないけれど、あの瞬間におれに言うべきではなかったものを、積極的に選んで古泉は行ってしまった。言ってしまった。でももう取り消すことはできないのだから、どうしようもないと言えばどうしようもないのだけれど、一度古泉を拒絶してしまったおれは、もう何もできない。古泉に何を言われても許せない。胸を支配するのは怒りではなく悲しみだ。
おれは何をしたんだっけ?古泉から逃げて、つかまって、靴を投げて、泣いただけだったっけ?ほかにはもう何もしてない?そうだとも、ほとんどの行動は、古泉ばかりがとっていた。逃げたおれを追いかけた古泉は、おれを探して、こんなにぼろぼろになって、なおも逃げるおれを追いかけて、捕獲して、家に連れ込んで、おれに靴を投げられて、抵抗せずに受け止めて、勝手にキスして、土下座して。……謝って、泣いて、今も床に額をこすりつけている。情けない姿。きっとおれしか見たことない。いや確実に。
だったらもう、許すとか許さないとか、そういう次元を飛び越えてもいいんじゃないかと、思考が横に流れてきた。そもそもおれは何を許さないと思っていたんだっけ?いやキスしたことだけれど。それは、許すとか許さないとか、そんな風に二択されなければならない問題だっただろうか?
古泉がキスした。おれは泣いた。だからきっと古泉は謝った。謝られると、おれは許したり、許さなかったりしなくちゃならない。だって古泉が謝ったから。許してほしいから謝るのだ。だからおれは、許してはならない、そう思っただけで。
ああ、わからんなあ、と、そう思う。また涙がぶわりと浮かびあがってきて、涙腺のコントロールができなくなったことを悟った。古泉の頭に手を伸ばして、がさがさの髪の毛のあいだを指でくぐる。驚いて顔をあげた古泉の、そのきれいな頬のラインを、両手の手のひらで何度かなでた。ざりざりと髭の感触がして、手のひらがくすぐったい。そのまま持ち上げて、目を見開いた古泉の、そのきれいなきれいな、きれいな瞳を覗き込んで、おれは、
「っいたい!!」
盛大に頭突きをした。満足したが額は痛い。とりあえずおれに頭突きをされたらしい、ということを理解した古泉が目をぱちぱちと瞬かせるのを見て、ようやく何か、こう、胸がほっとして、何かがとけた。
「謝るべきは、」
「は、」
おまえだけじゃないだろう、と喉の奥で絞り出す。最初から、どちらか一方が悪い、なんてなかった。つまるところ、どちらにも非は少なからずあった。それは勿論知っていたし、だからおれがどうにかせんといかんということも、多少はわかっていたし、でもどうにもならないのならそれまでで、とすべてを頭の隅に押しやって、古泉の謝罪に勝手に落胆していたのは、おれで。
きっと古泉は、キスしたことに対して謝罪した、わけじゃない。いやきっとキスに対しての謝罪ももちろんあるのだろうが、それがきっかけになっただけで、たぶんいろんなことを、いろんなことを俺に申し訳なく思って、謝った。たぶん。
一度口に出すと、あふれて止まらないってことがある、それはおれも経験したことがあるからわかる。古泉の、その情けない表情を見ていたら、今の謝罪が嘘ではないということもわかる。だったら、古泉がこうしてぐしゃぐしゃになって謝ったのなら、次に行動せねばならないのはどう考えてもおれだろう。わかってる。わかってるけれど。
きっかけがない、それがないと謝れないなんて、どこの子供の言い訳だか。でも本当に、きっかけがないと言いだせない。今更どの口でごめんなさいなんて、ああ言えない、言えやしないね。喉の奥が痙攣して、言葉になりきれなかったものが口から飛び出る。嗚咽。また涙が落ちた。
「なあ、おまえが言、って、くれないと」
「…………?」
「おまえが、おま、えがっ……さきに、」
「え、っと……?」
どこかの部分がひきつって、うまいこと口に出せない。
だけどそれでもわかれ、と無茶なことを願った。いつだって古泉に手を伸ばしてもらっている。おれはそれに縋って、前に進みだすのだ。古泉のきっかけばかりを心待ちにしている。はやく。言ってくれなきゃもう言えない。無茶なことを言っている。わかっている。
だから古泉、こいずみ、どうか。
「…………ただい、ま……?」
明らかに自信がないですと言わんばかりの語尾上がり、それでも待ち望んでいた言葉、必要としていた言葉が耳朶を震わせて、今度こそ呼吸ができないほどにしゃくりあげた。ううー、と喉の奥が震えて、声にならない声が出る。失敗だったのだろうかと思ってうろたえているらしい古泉の、首の後ろ、よれたカッターシャツの襟首を掴んでぐいと引っ張り、意味もなく遠ざけてまた近づけて、やりきれない思いを消化しようとした。
ごめん、その一言が口から出なくて、どうやって謝ればいいのかもわからなくなってしまった頭で、それでも必死に、言うべき言葉を口にする。
「おか……り、っお、かえっり、こ、こいずみ、おかえっ……ぐ」
詰まった。
それはともかく古泉は、やっぱり、超能力者だったのだ。きっとおれの頭の中などとっくのとうに見透かしていて、ぐちゃぐちゃなことを考えているおれをあざ笑っていたに違いない。ひたすら壊れたレコーダーのようにおかえりおかえりと(発音できているかも怪しいが)口にするおれを、古泉がぽかんと見下ろしている、ような気がした。ような気がしたというのは、涙で目の前がちっとも見えなかったからである。
かと思ったら、痛いくらいに抱きつぶされて、呼吸ができない苦しさと胸の痛みその他でまた息が詰まる。何度もしゃくりあげながら、それでも呼吸の合間に小さくごめんと呟いた。古泉に届いていたらいい、とはとくに思わない。口にできたその事実だけで、いくらか胸は軽くなった。
おまえが先に、というそのフレーズだけで、おれが求めている言葉を与えてくれた古泉は、いまどんな顔をしているんだろう。今目の前にあるのは薄汚れたシャツだけで、古泉の顔じゃない。汗臭いし泥臭いけど、離れてほしいとは思わなかったり、恥ずかしくて離れてしまいたかったり。
もぞ、と肩口に頬をすり寄せると、古泉が意味もなく震えた。なんだ、そんな震えるようなことしたっけか。いやだっただろうかともう一度頬をすり寄せると、甘えたみたいな吐息が鼻から抜けていってびっくりする。
「……あの、これ、もう仲直りで……いいんですか」
「おま……」
少しは空気を読めよ、と言ってやりたくなる言い方にまず呆れたが、うん、まあ、それもいいよな。気が抜けるようなこの感じは、おれたちにほどよく似合っている。肯定のかわりに片手を伸ばして、たぶんこのへんかな、というアタリをつけて、古泉の頬と思しき部分を引っ張った。ほっぺたではなく唇の横だったらしく、少しざりざりして、古泉がいたたた、なんて呟くのが聞こえた。
もう一度。もう一度、と何度も思いながら頬をこすりつける。くひゅんと息が漏れて、汗と泥くさいカッターシャツに息が沈んで行った。涙のせいでシャツはすっかり濡れて、古泉の肌の色が浮き出ている。デスクワークばかりで無駄に白くなってしまったらしい肌。
シャツを噛んでくぷくぷ息を吹き込んだり、臭みが抜けんかなと思いながら舌先で舐めたりして遊んでいると、古泉がなんだか耐えきれないと言わんばかりに首筋に噛みついてきた。すっかり乱れた衣装の隙間に手が入り込んでくるのではたき落とす。不穏な動きを始めそうな古泉を蹴って距離を置くと、追いかけるようにやってきた唇が歯にぶつかった。がしゃん、と音がしたのはたぶんさっき投げた諸々だろう。
廊下にずるずると尻這いで上がると、古泉が追いかけてきて片膝をついた。なので腰に腕をまわして一応抱きついてやる。肩口に顎をのせるといくらか安定して、わりと居心地が良い。
が。
「…………こいずみ、おまえ、」
「なんでしょう」
「くさい」
「……………」
諸々が落ちつてきたので、かねてからの文句をぶつけてみる。くさい。専門家ではないので細かな分析はできないが、汗と泥と、それ以外だと地面のにおいとか、すっぱいような何かとか。いや合間合間に古泉本来のにおいもするのだが、対比にもならない程度には、悪臭が強い。なので総括して、まあ、くさい。
しばらくの沈黙。かと思ったら、はあああ、と重たい溜息が耳のすぐそばを抜けていった。
「……すみませんね。でもあなたも人のこと言えないですよ」
んだと。
いや、一応自覚はあるとも。昨夜風呂に入ったとはいえ、ひと晩中外を走り回ったわけだからな。おまけに最後の最後でゴミ箱に体を寄せた身だ、臭いのも当然だろう。
「あのね、まだ風呂に入っただけましと思ってください。言っておきますけど僕、あなたを追いかけてる間ずっと入ってなかったんですからね」
「うわっ」
急いで体を放してまじまじと古泉を見上げた。髭が伸び放題なので、よほど余裕がなかったんだろうということは察することができる、が、風呂に入っていないとな。ええとおれが家を出たのが日曜で……、古泉がおれを探し始めたのはいつだ?「月曜からです」人の心を読むな。ええととにかく、月曜から今日がー木曜、で、いちにーさん、し……四日。四日!四日間!風呂なし!
「うわああ、こいずみばっちぃ!」
「失礼な!いやそのとおりですけど」
そう言えばさっき舐めちまった、と言いながら玄関先にぺっぺっと唾を吐き捨てると、はしたないからやめなさいと窘められた。
そりゃあ四日間も風呂に入ってなかったら、普段あれだけフローラルみたいなにおいを発する古泉でも臭くなるだろう。走りまわっていたのならばなおさらだ。それほどまでにおれを、と考えると胸がじーんと、……ならんな。いや、だからと言っておれを探している最中に悠長に風呂に入ってもよかったのかと聞かれるとそりゃあ嫌だが。
これ汗か、と問いかけながらカッターシャツを軽く引っ張ると、古泉があいまいな表情で首を左右に傾げる。途中骨が鳴った。
「どうでしょう……たぶん八割汗ですが、あなたを追いかけている最中にドブ川で倒れましたからね。それもあるんじゃないですかね……ドブ川のね」
「うええ……」
それは、あれか。あの小川のことか。いちいち強調せんでいい。まあその、確かにあのときはなんとかして古泉の足を遅らせようと、わざと進みにくい道を選んだ。おれは慣れているがあわよくば古泉が途中で倒れてくれないかと思っていたことは思っていた、が、まさか本当に倒れて(くれて)いたとは。
なるほどそれは臭いはずだ。
「しかもそのあと何度か普通の道でも転んでますからね……泥だらけもいいとこですよ。数えるのも途中で馬鹿らしくなりました」
つまりは、数えるのも馬鹿らしくなる程度には転んだということか。わーばっちいばっちい、言いながら頭をがしがしとかき混ぜてやる。日に透けるようなきれいな髪の毛も今はぼさぼさで、指先に絡む感触があんまり心地良くない。
右手と左手、それぞれで髪の毛を引っ張ってやると、毛根がかわいそうな状態になったので急いで離した。うーん、虱はない。一瞬古泉にそんなものがついていたら、と考えてその恐ろしさにすぐ想像をやめた。ついていたらついていたでちゃんと除去してやるつもりではいたけれど。
「おまえさあ、風呂入れよ」
「あなたが先でいいですよ。ついでに傷口ちゃんと洗ってくださいね」
「やだ、おまえ先入れよ、くさいし」
「くさ…………」
わかってはいましたよ、わかってはいますけど、くさいくさい言われると僕だって傷つくんです、古泉はそう言いながらおれの二の腕をふにふにつまんだり、鎖骨あたりに歯を立てたりしている。あーこりゃ歯磨きもさせんといかんな、あと薬用リップクリームどこやったっけ、と思いながら後頭部をくしゃくしゃにかきまぜた。ばっちい古泉くんはお風呂に入りなさい、と耳元で言ってやると、しばらくして腰に腕が回ってくる。人の話を聞く意思がないのかと。
思っていたら、抱きあげられた。
うきゃあだかうおあーだか、意味のわからない悲鳴があがって恥ずかしくなり、古泉の肩に口を押しつ……くさい!だから何よりもまず先に風呂はいれって、と照れ隠しにもならない言葉をぶつければ、古泉は頬をおれの首筋にすり寄せて来た。
「ええ、ですから、何よりもまず先に二人でお風呂入りましょうよ」
「いやだ」
「わかりましたシャワー浴びながらお湯溜めましょうねー」
いやだ話聞いてないこいつ。
廊下を歩く古泉の、激しく汚れてばさばさのスラックスから砂がこぼれて広がっていく。察するに、スラックスに付着して乾いた泥だろう。
片付けは全部やらせよう。風呂ももう知らん、好きにしたらいい。はたいて止めるのも面倒で、ため息ひとつののちに、両腕を古泉の肩に投げ出した。