適度にあたたかな温度と手になじむ触感と腕にかかる程よい重量はここちよく、浴室に向かう廊下で何度か立ち止まっては首筋や頬、当然唇にもキスをした。
文句を言うのも面倒、のレベルまでいけば彼女は僕に何を言うわけでもなく、大人しくしてくれる。いや、ここまで面倒がらせてしまったのは申し訳ないと思うけれども。
浴室につくなり彼女を下ろす、ということはせず、とりあえず脱衣のために用意されたラックの上に彼女を座らせる。ほぼ同じ目線で、いろいろやるには都合が良い。目の前にだらりと投げ出された足を手にとって、傷の具合を確かめてから、衣服を脱がせにかかった。これってどうすればいいんだろう、とりあえず帯紐を外せばいいのかな。
のそのそと結び目に手をかけて解けば、着ものの合わせが外れて無防備な胸が現れる。目に痛いほどの白に、頭に恐ろしいスピードで血液がせり上がってきた。そのせいか、かっと顔が熱くなり、急いでそこから視線をそらす。何の汚れもない首筋から腹にかけて、隠しもしない彼女にまず何を言えばいいのか、うまい言葉が出てこない。とりあえず乱れた着ものは直しておいた。
「あな……かくっ、ぶっ…いえ、下着はどうしたんですか!」
「寝る前だったんだからつけてるわけないだろうが」
ああそう言えば僕があそこに訪れたのは日付が変わる前くらいでしたね。そうだけれども。
せめて恥ずかしいとか見るなとか、何か言ってくださいよと恨めしげに呟くと、お前相手に隠すも何もないだろうがと言われてしまった。どうしよう、確実に喜ぶところなんだろうけど、手放しで喜べないこの気持ち。
と言うよりもこれは喜ぶべきではなく、下着もつけない無防備な姿で飛び出させてしまったということを憂うべきで。もしこれで変質者に目をつけられていたらどうなっていたのだろう。考えれば考えるほど、ぞくぞくと嫌な気持ちが沸き上がる。得体のしれないものに対する嫌悪感と、自分に対するやるせなさやふがいなさ。ごめんなさい、ごめんなさい、呟きながら、小さな手を握り締めて、親指の腹で手の甲を撫でる。
「そういう……、感傷とか、申し訳なさとか、もういい。お前が何を不安に思ったりしてるのかとか、知らんが……もう今は、気にするな。な、それより風呂入ろう、風呂」
ぱたぱたと足を上下させて、彼女は僕の顔を覗き込んだ。子供らしい仕草は無意識なのだろうか、かわいい。
「なあ、へんな顔するなよ」
へんな顔って。どんな顔だか。
確かに彼女の言うとおり、こんなところで感傷に浸っても意味などない。それよりはさっさとこの臭さを取り除くために風呂に入るほうが、ずっと意味のあることだろう。
苦笑しながら着ものに手をかける。脱がしますよ、とさりげなく言いたかったのにも関わらず、口から出たのは「ぬ、ぬが、脱がしますよ」という恐ろしくどもったそれだった。
彼女が僕をまっすぐ見つめながら、胡乱げな表情をする。いえわかってます、わかっていますとも。
「いや、おれは自分で脱げるから、お前も自分の服を脱げよ」
ごもっともです。
ラックの上から小さな着地音をたてて降りた彼女は、何も言わず僕に背中を向けた。そのまま気にも留めていないと言わんばかりに着ものを脱ぎ、白い背中を露出させる。まじまじとその過程を眺めている自分もアレだと気づいて、こちらも体の向きを変えた。そんな、初めて一緒に風呂に入るわけでもあるまいに。何を動揺することがある、そう思いながらボタンに伸ばした指先は、かすかながら震えていた。直径一センチ強のそれがボタンホールをくぐりぬけるまでこんなに時間を要するなんて、まったく知らなかったとも。
振り返れば既に裸になった彼女が僕を見上げていて、うわあと情けない悲鳴が上がる。いや、こんなことで声を上げているなんて童貞じゃないんだからと自分に言い聞かせても、はやる心臓が落ち着いてくれない。とりあえず可及的速やかにベルトは外してズボンも脱いだ。ざらざらと音がするのは、ズボンからこぼれた砂だ。
「こら、そこに置くな。それも一緒に持って入って、泥だけでも落とすぞ」
「え、あ、それは、はい」
何が一番落ち着かないって、しばらく抜いていなかった僕のアレだ。せっかく仲直りできたばかりだというのに、この愚息が早くもその和やかなムードをぶち壊してしまいそうになっている。だってそうだろう、彼女の裸を見るのだって久方ぶりなのだ、反応しない方がおかしい。むしろ反応しなかったら僕は男として終わる。
ちょっとトイレに、とでも言って先に抜いておけばよかったと思っても後の祭り。彼女に背中を押され、浴室に入る。長い間使われていなかったそこは乾燥しきっていて、タイルはひんやりと冷たかった。
「なにしてんだ古泉、突っ立ってないで、桶!」
「あ、はい、すみません」
すっかり元の調子だなあ、さっきまでのしおらしさと言うか、小鹿のように震えていた彼女はどこに行ったのだろう、いや元の調子に戻ってもらえてとてもとてもうれしいのだけれど、と思いながら桶を手渡す。うむ、なんて厳かな言い方でそれを受け取った彼女が、桶の中にズボンを入れた。シャワーヘッドをそこに近づけ、強い水の勢いで泥を適当に落とす。
みるみるうちに汚くなった泥を眺めていたら、いいからお前は浴槽に湯をはれ、と怒られてしまった。はいすみません喜んで。
水量の調節ができるタイプなので、シャワーしながら湯をためることは可能だ。彼女がきれいに使い続けて、換気もしてくれていたため、浴槽は綺麗なままだが、一応シャワーを借りて中を洗い流したあと、栓をして、温度は少し高めで湯を張っていく。視線を下げれば泥色に染まった水を流す彼女がいて、やっぱりその背中のラインに見惚れた。
「……どうですか?」
「ん……、泥はあらかた取れた。汚れも一応洗ってはみるが、もうダメだなあ、ちょっとここ破れてるし。捨てるか?や、最初は捨てるつもりだったんだが」
「そうですねぇ……」
一張羅、というわけでもないから捨ててしまっても構わないけれど、なんとなく捨てたくないと思うところもあって、返答に困る。これを穿いた状態でいろんなことがあったんだと言うことを覚えておくために、残しておくのも悪い手ではないはずだ。どちらにせよ職場に穿いて行けはしないのだから、部屋着かちょっと出かける用にでもすればいいかと適当に考えつつ、残しましょう、と提案した。
小さく頷いて了承の意を表した彼女が、小さな手のひらでズボンを絞って、何回かに分けて水分を除く。ぱんぱんと手のひらで叩き、かすかに皺を伸ばし、たたんだそれを脱衣所に持って行った。
戻ってきたときにはその手にジェルと(一瞬淡い期待を胸に抱いたが、それはいやらしいことに使うものではなかった)、どこかで見たことのある黒色をした剃刀。ああそう言えば、僕のだったっけ。
「もう湯溜まったか?」
どうしたんですか、と問いかけるより先に問いかけられ、急いで確認する。浴槽の半分ほどを湯が占めているのを確認して頷けば、彼女は剃刀とジェルをシャンプーラックの上に置いて湯を止めた。と思いきや、シャワーヘッドを手に持って僕を見つめてくる。何を言われるのだろうと少し身構えれば、彼女はぱちりと瞬きをひとつ。
「そこに座れ」
「え、」
「そこに、すわれ」
言い聞かせるようにゆったりと口にされ、意味がわからないながらもとりあえずバスマットを敷いて座り込んだ。彼女に一緒に住みませんかと提案した当時はよく二人で風呂に入ったので、バスチェアが二つあったら邪魔だろうという理由からマットに変更したのだ。僕がマットに座り込んだのを確認すると、彼女はこくんとうなずいてシャワーヘッドを僕に向ける。まさか、思った瞬間、水が僕目がけて放出された。
「わぷっ」
先ほど湯を溜めていたからか、シャワーから出てくる湯は温かい。まず顔に、顔から胸に、胸から腹に、膝に、最後に頭にかけられた湯を、頭を振っていくらか払う。急所に激流をぶつけてこなかったのは彼女の良心だろうか。と言うか真正面に立たれると視線の先が、ですね、こう、いえ、何も言いませんけど。口ごもると手の甲で叩かれた。
真正面に座った彼女が、手ずから頭を洗ってくれる。こんなサービスいいんだろうか、ちょっと浮かれてしまうけれど、と思いながらなるべく彼女を凝視しすぎないよう視線をそらした。
こめかみや耳の裏、頭のてっぺんや後頭部まで丁寧に揉みこまれ、気持ちが良い。眼を細めてその気持ちよさに身をゆだねれば、彼女が笑った。細い指先でどこもかしこも弄られると、頭がぼうっとしてくる。これは、彼女ばかりに任せていないで、僕も彼女に何かをしてあげるべきなのでないのだろうか。
「あの、僕も……」
「いらん」
いらんって。
まさか最後まで言い切らないうちに拒否とは、些かショックだ。しょんぼりうなだれると、やりやすくなったと言わんばかりに彼女が首付近まで手を伸ばす。髪の生え際、うなじまでしっかり洗われて、情けないが気持ちよかった。
湯でごくごく丁寧にシャンプーを流され、いつの間に用意したのかあまり大きくないタオルで耳の穴を拭かれる。美容師さんみたいですねと呟くと、むしろこれはお母さんだろうと呆れ半分に言われた。お母さんか。いやだな。
「あなたは僕の、こ恋人でしょう?」
「噛むな。こーんな出来の悪い……息子みたいな状態で恋人なんて言われてもなあ」
今度こそショックを受けて、先ほどより深くうなだれた。いや噛んでしまったのは申し訳ないと思うけれども。そうこうしているうちに、気にも留めていないらしい彼女がリンスを僕の髪の毛に揉み込んでくる。生え際から毛先まで、手のひらや指で浸透させるように。
そしたら次は体だ、と言われて体を反転させられた。背後にあった鏡と正面から睨みあう。実に情けない顔をしているなあ、と思いつつまじまじと眺めてみた。やっぱり、いくらかくたびれているし、思った以上に隈がひどい。唇に至っては色が白くなるくらいひび割れていて、髭が見たこともないくらい伸びている。情けない顔だなあ。何度でも思う。なさけないかお。出来の悪い息子。
彼女はそんな僕の心を知ってから知らずか、お湯でリンスを流しながら背中にも湯を流してきた。肩甲骨あたりにスポンジが押し当てられて、痛くはない強さでこすられていく。会社にこもりきりだったときは、会社の簡易シャワー室を使っていたけれど、やはり広さ使い心地その他もろもろが全く違う。何より後ろにいる彼女の存在が。
「いたくないか?」
「きもちいいです」
そっか、と呟いてスポンジを肌の上で滑らせる。小さな手のひらが時折、体の肌をなでるように掠めていった。ちょっとその、わずかなと言うかかすかなと言うか微妙なタッチが、くすぐったいやら気持ち良いやら、あまり刺激しないでほしいなんて思ったり。いや、そもそも彼女は何をしているんだ?
「なにか……、ついてますか?」
「うん」
短い声で返答した彼女が、僕の脇腹をくすぐった。あまりそこが弱いわけではないが、唐突だったため息を呑む。ぺたぺたと細い指先が脇腹を往復し、いたわるように今度は手のひらが触れてきた。じんわりと沁みる温度が心地良い。
「ついてる。傷。……これ、おれを追いかけてきたときの……だよな」
「え、そんなのついてたんですか?」
まああれほどこけつまろびつだったのだから、傷の一つや二つついていても不自然ではないけれど。体を左にひねって脇腹を覗き込むと、なるほど確かに小さな蚯蚓腫れがいくらかできていた。どこだろう、これは、そうだなあ、何かの枝に引っかかったときだっけ。服の上からだったからこんなに傷ついているなんて思わなかった。痛くもなかったし。
こっちも、と言われて視線を移せば、右肩に裂傷が入っている。これもたぶん察するに、木の枝かな。じんわり裂けている。ネクタイを緩めて首を解放し、煽いでいたときの、あれかな。たぶん。
こっちもこっちも、と彼女が体に触れるたび、どんどん声が曇っていく。気づいていながらも、何も言えなかった。何も言わなくてもわかる。自分のせいだと、自分を責めているのだろう。細い指先が肌の上を撫で、ここにも、と新たな傷を見つけるたび、まるで自分が傷ついているかのように悲しい、細い声を出すのだ。
「……痛くは、ないんですよ」
「でも」
「いえ、ほんとうに。痛くないから、気づきませんでした。泡があたっても痛くないから、もう治りかけているんでしょう」
「……でも」
「いたくないから、」
痛くないから、もう傷なんて見ないでください。彼女を悲しませたくなくて、そう言った。もっと言い方というものがあったろうに、と反省しながら振り返り、うなだれている彼女の頬に触れる。もう少し僕がどんくさくなければ、傷もこんなにこしらえなくて済んだのかな。今更思ったところで傷が消えるわけでもない。
「ね?」
もう気にしないで、の意味を込めて小首をかしげつつ囁くと、彼女はうつむいたままこくりと頷いた。
「……ん」
わかったから、前見ろ、そう言われて、なんとなくほっとしながら前を向く。
背中を洗い流された後、また正面を向かされた。
今度は何をするんだろうと思いながら彼女の動向を見守っていると、おもむろに小さな両手が伸びてきて、僕の頬を挟む。もともと頬肉がそんなにないので、つぶれるような妙な感触はしなかった。ああそういえば髭、と今更思い出して恥ずかしくなってくる。
「動くなよ……」
いえ、恐ろしいので言われずとも動きません。とは口には出さず、じっとする。彼女が髭剃り用のジェルを自分の手のひらに出し、そのまま僕の頬に押しつけてきた。これは僕がやった方が早いんじゃないのかな、と思ったが何も言わない。なんだかんだ、彼女にこうして甘やかされていることが嫌いではないし、嬉しいから。
とはいえ剃刀を彼女に握らせると妙に背筋が寒く感じるのはなぜなのだろう。いや、安全刃だから大丈夫だとはわかっているけれども。しょりしょりだかしゃりしゃりだか、林檎をすりおろすときの音と近しいそれが耳のすぐそばで鳴っている。なんだかそれが、心地良いような寂しいようなで、僕はそっと瞼を伏せた。