どこか顔色の悪い頬やら顎やら鼻の下やらの上、剃刀を至極ゆっくり滑らせる。剃刀の扱いに慣れていないわけではないが、それを人にやるとなると話は別だ。小さな音を立てながら髭を剃り落としていく。
 親指の腹で頬のジェルを拭うと、白い肌が露出した。くすぐったそうに眼を細める古泉の、こめかみあたりまで飛んだジェルをまた拭ってやって、今更ながら泡の方が雰囲気があったかな、ととんでもないことを考えてみる。

「終わり、ました……?」

「まだ、もうちょっと」

 極力肌を傷つけないようにゆっくりと剃刀を動かし、顎の下まで丁寧に剃った。お湯で流せばごく綺麗にジェルが流れ落ちる。なるほど、きれいなジャイアンならぬきれいな古泉か、と思いながらくすりと笑った。
 痛みのない頬に自分の頬をすり寄せると、すべすべとした感触がして気持ちいい。少し濡れていて滑りが良く、雫が垂れて肩口に落ちるのがくすぐったかった。いつの間にか伸びてきていた手がおれの後頭部に回り、自分の頬へと押しつけるそれになる。ごつごつした骨が当たって痛かったので、手の甲をペチンと叩くとすぐに手は離れた。
 しっとりと濡れていて重たく感じる睫毛を上下させると、そのまばたきの合間にキスされる。つるりとした唇が触れて、思わず薄く開いていた口を閉じた。離れたからと思って開けば、再びぶつかってくるので自然と声が漏れる。

「……ん」

 ぱちりと目を開けば、見られるのが恥ずかしいとばかりに顔は離れて行った。
 わずかに見つめてみるが、こちらも恥ずかしくなったのですぐに視線をそらす。そらした先には温かそうな湯気を上げる湯船があって、急いで意識をそちらにそらした。

「ほらっ……さき入れよ。おれ、体洗ってから入るから」

「あ、はい。すみません」

 慌てたように立ち上がった古泉が、一目散に湯船の中に沈んで行く。熱かったのかどうなのかはわからないが、肩まで浸かったところでぶるりと震えていた。古泉がそちらを向いている間に、急いで体を洗う。確か特売で買ったボディーソープだが、存外匂いが良くて、気分がかすかに落ち着く。
 小さめのバスリリーで体を洗いながら(古泉はこれのことをいつもスポンジと言う。おれが訂正しても次の日になったらスポンジ呼びに戻っているので訂正するのはあきらめた)、そっと胸のあたりに触れた。どくん、どくん、とゆっくり手のひらに伝わってくる振動。かああ、と顔が赤くなる。なにを照れる必要があるのか。恥ずかしい?
 耳の奥がどくどくと脈打っていて、他にはなにももう聞こえそうにないのに、古泉が時折立てるお湯の音とか、おれが体をこする音がいやに耳の中に入り込んできて。耳をふさいでしまいたいような気持ちに駆られながら、ちらりと横目で古泉を見た。古泉は律儀に向こうを向いていて、頬に手を当てたり首筋を押さえたりしている。
 シャワーで体を洗い流し、髪の毛を大雑把に洗った。夜風に吹かれすぎたせいか、少し毛先がぱさぱさしている気がするが、リンスをつけるといくらか落ち着く。

「なあ」

 声をかけると、古泉の体がびくりと震えた。

「…………は、い」

 よくよく聞けば震えているらしい声に、なんだか歯が浮くような、むずがゆいような感覚に襲われる。いっしょにはいっていいか、と言おうとしたら、古泉が振り返った。目のふちが赤くて、泣いていたのかと思う。何を言われるのか待っていると、古泉がゆっくり横にスライドして、軽くスペースを空けた。それってつまり。

「あの、一緒に…入りませんか」

「え」

「あ、お嫌でしたら結構ですから!」

 何をいまさら。おれが嫌がると思っていたのだろうか、そりゃいくらか心外だな、と思い、あえて無言で入ってやった。さすがに二人入ると湯がバスタブいっぱいになる。心臓より上に浸かると体にあんまりよくないんじゃなかったっけか。まあいい、今の状況がすでに心臓に悪いのだから。
 いやがらせをするつもりもからかうつもりもなかったのだが、気づけば古泉の腕に後頭部を預けていた。薄ら触れる肌と肌。湯の中で触れる肌はなんだか感触が違って、不思議で、気持ちいいようなむずがゆいような感覚がする。
 え、だとかわあ、だとか、なんだか葛藤するような古泉の声が聞こえて、観念したようにため息が吐かれる。

「……う?」

 脇の下から伸びてきた腕が、おれの腹の前で組まれた。臍の上を軽く圧迫する程度の力で、それがすこしだけ気持ちいい。
 湯の中でまったりするのは嫌いではないのでされるがままになっていると、その手のひらがいささか不穏な動きを見せ始めたので、ぺしんと叩き落とした。

「……急に、そういうのは、ちょっといやだ」

 かなりと言わずちょっとと控えめに言ったのは、あれだ。一応おれも古泉に配慮しているのだ。本当は、なかなおりとやらをしてすぐにこういう行為に及ばれるのは、ちょっとどころでなく嫌なのだが。さすがにそこまで包み隠さない本音を口にすれば、古泉が少なからず凹むだろうということは想像できたので。
 すみません、といささか沈んだ声で謝罪した古泉は、どんなふうに手を離したら自然なのだろうかと考えているような不自然さで腕を引く。その、良く言えば素直なところはすきなのだが、もしやそのやり方はおれの罪悪感を引きずり出すための演出か?
 ただ一緒に風呂に浸かってるだけじゃだめなのか、古泉には足りないのかと、少し残酷なことを考える。そりゃ、古泉にとっちゃたまらないんだろう。
 自分がやっていることが、ただ古泉を追い詰めているだけだと気づいて、やりきれない思いになった。

「……先に出る」

 ぼそっと呟いて、間抜けな声を上げる古泉をよそにさっさと風呂場を出る。入ってまだ一分も経っていなかった。だから体も大して温まっていない。でもいい。
 おざなりに体を拭いて、さて何かを着なければと思ったところで替えの服がないことに気付いた。着替えも用意していなかった、そりゃ当然だ。ここまで連れ込まれたのだから。
 頭にタオルを被せ、素っ裸で自室に向かう。後ろでバシャバシャと古泉が水面を動かす音が聞こえたが、振り返りはしなかった。
 部屋に入り、少し埃っぽい室内で咳払いをひとつ、そののちに箪笥を漁る。下着類も、寝間着も、普段着も、外出着も、なにひとつ変わらない配置でそこにあった。捨てていいって、言ったのに。思って、一瞬胸になにか奇妙に熱いものがこみ上げる。が、そりゃこんな短期間で捨てている暇などなかっただろう、と現実的なことを考えると頭が冷えた。
 ワンピースタイプの寝間着に着換え、階下へ降りると同じく素っ裸の古泉が腰にタオルを巻いて(と言うと、素っ裸とは言わないのだろうか)、廊下に盛大に水をまき散らしながら衣服を探していた。ばかものめ。呆れながら寝間着を取ってきてやれば、まるで初めてここに越してきた日のように、あたたかな笑顔を浮かべる。

 ……ばかものめ。




 おなかがすきましたねと古泉が言ったので、なにか簡単なものを作ることにした。
 が、冷蔵庫にマトモなものは何一つとして残っていなかった。賞味期限切れの既製品のみ。腐りそうなものはあらかじめ捨てておいたのは正解だった、と思いながら、賞味期限の切れたうどんでわかめうどんを作る。所要時間十五分。でも古泉は、高級レストランで初めてフォアグラを食うみたいな顔でうどんを喰った。おいしいですおいしいですと言いながら食った。五分で喰った。

 さんざ動いて風呂に入ってご飯をかっ食らえば自然と人間がすることは一つになる。睡眠だ。あなたに言いたいことがたくさんあるんです、と緩慢な瞬きをする古泉に言われたが、それはいつでも聞いてやれるから今は寝ろ、と寝室に連れて行った。ベッドに突っ込めば古泉は存外素直に瞼を下ろす。疲れていたんだ。
 疲れていたんだ、とても。

 おれはと言えば、そんな古泉に言いたいことがたくさんあった。おれもあった。けれど、別に今でなくてもよかった。だから言わずに我慢した。古泉の吐息が静かで薄いものになったのを確認して階下に降り、先ほどの食事の後片付けをし、明日買うべきものをリストアップし、迷惑をかけたじいちゃんばあちゃんに連絡をすることをメモし、四隅に溜まった埃をなんとなく掃除し、おざなりに肌の手入れをし、寝室に向かう。あらかじめ電気を落としておいたので暗い室内に入り、そこで立ち止まった。しばらく暗闇に目を慣らして、いいころ合いになったところでうっそりと古泉に近寄る。暗闇でもわかる目の下の隈。
 黒塗りしているのではと疑いたくなるほど暗いそこに指を這わしたところで、突然手首を掴まれた。

「っぎゃ……うわ!」

 あ、と思った瞬間には目の前に古泉の首筋があって。ふんわりと薫るボディーソープのやさしい匂いに、鼻の奥がツンとした。数秒遅れてじんわりと背中が温かくなる、と同時に感じるかすかな圧迫感。思い出すのに時間がかかった、古泉の抱き締め方。抱きしめられたときの諸々。頭が一瞬で白くなった。

「ねて……ろよ」

「ちゃんと寝ました、さっき」

 さっきって、寝かしつけてから今までのたった数分のことか。睡眠をなんだと思ってるんだばかものめ。せいぜいかかって三十分、いいとこ四十分くらいだ。たったそれだけで、休んだつもりになっているのだろうか。
 ぐっと胸板を押すと、強い抵抗が返ってきた。デスクワークばかりしているのに、一向に筋肉が衰えないのはなぜなのか。いや、少しは力が弱くなったかもしれない、おれが気付いていないだけかも。
 ぐっと古泉の鼻が近付いて、おれの頬をくすぐる。唇が一瞬掠めたり、吐息が唇に触れて行って、妙にくすぐったかった。よく懐いている犬がじゃれてくるようなそれ。心地よくて放っておいたのがまずかったのか、だんだんとかかる圧力が増してきて、気付けば組み敷かれている。あっと思う暇もなかった。頭の奥がぼうっとしていた。

「……だめですか」

 古泉が呟く。なにがだめなのか。いや、本当は言いたいことを知っている。古泉が伝えたいことを知って、それを口に出させたいがために黙っている。たぶん、おれがそう考えていることを古泉も知っていて、口にするのを迷っているようだった。喉仏が目の前で上下する。

「卑怯ですよ……そんな目」

「……どんな目か、知らんね」

 誘うような、挑発するような、ねだるような、悲しむような、馬鹿にするような、そのどれかもわからずに言う、どんな目をしていたってもう、なんでもいい。
 古泉の顔が、近付く。かさかさの唇がおれの唇の間近、もうあと何ミリかの距離まで来て呼吸でくすぐったあと、すっと掠めて耳元に下りた。耳の穴から体の奥にねじ込むように低い声で、一言。

「もう、なんでもいいから、はやくあなたと、つながりたい……セックスしたい」

 我慢しきれずと言った様子の言葉は、後半で欲望がむき出しになる。あるいはそれが本能なのか。頭の奥と目の奥、かっとするような何かに浮かされて、とりあえず怒りは吹っ飛んだ。はからずも太腿に押し当てられた硬いものに体が震え、それに古泉が怯えたように体を震わせる。そうやって、おれが怖がらないようにとか、おれが怒らないようにとか、こんなめちゃくちゃな状態でも考えているらしい古泉がかわいそうでかわいくて。
 もの言わぬまま、古泉の寝間着の隙間から手を侵入させ、かたい肌に爪を立てた。