真っ白で、なにもみえない夢を見た。

 ゆっくりと瞼を開けば、隣に古泉がいないことに気づく。もとより、空気や感触でそばに誰かがいないということはわかっていた。それに寂しさを覚えたのはもう隠さない。寂しかった。起き上がり、自分の体をぎゅう、と抱きしめる。
 体をきれいにされていることはこれもやはり感触でわかった。さらさらとした腕をひと撫でする。瞼を閉じると昨夜のことが思い出され、否応でも体の鈍い痛みがよみがえった。結局あのあと、思うがままに揺さぶられて、意識があるのかないのかもわからないくらいの瞬間達していて、そしてまるで薬でも飲まされたかのように重たい眠りについたのだ。

「……」

 しゃべるとうまく声が出そうになかったので、黙り込んだまま立ち上がる。近くにあった古泉のパジャマを羽織ると腿まで隠れたので、下は穿かずに部屋を出た。リビングに通じるドアを開けると、電気はついていないが日の光で十二分に明るい室内に人の気配を感じて、少しだけほっとする。けれど、同時にがっかりした。

「……し、ご、と、ぃ…くのか」

 案の定ひどい声が出て、思わず顔を顰めた俺に、古泉が微笑みかける。そのスマートな体を包んでいるのは、ピリッと仕立てられたスーツだ。いつだったか、俺が贈ったネクタイを締めてくれているのは、俺に少しでも申し訳ないとでも思っているからなのか。
 あんな風に、逃げて、追いかけられて、つかまって。ばかみたいにたくさんキスしてたくさんセックスして、終わって。すべてが終わったら、そしたらもう、仕事なのか。

「……ぁ…さ…ごはん」

 つくらなきゃな、と呟いて、キッチンに向かう。泣きたいほどではなかったが、心にぽっかり穴が空いたようだった。あなたが大事ですと言ったその次にはもう仕事へと向かう男を、白状だと言えばいいのか真面目だと言えばいいのか。そんなの。
 絶望というものをほんの少し軽くしたら、今みたいな気持ちなのかな。思いながら、古泉の横を通り過ぎようとすると、古泉がそれを制した。すっと伸びてきた手が俺をとどめ、甘い声が言う。座ってください。

「ご飯はいいですから、まず座ってください」

「なに」

「大事なお話があります」

 そこで浮かべていた笑顔が引っこんだので、ああほんとうに大事な話なんだなと悟り、ゆったりとした足取りで古泉の真正面に設置された椅子に腰を下ろす。申し訳ないが、まったく想像つかなかった。朝起きたら、昨日まで息もつかさぬ激しいセックスをしていた相手が途端に大まじめにスーツ姿で待ち受けていて大事な話と言っても、何が何やら。さっぱり。
 すみませんがやはりあなたより仕事のほうが大事でして、と言われれば、確実にその場で絶望できる自信はあったが。
 正面でまじめな顔のままおれを見つめていた男が発したのは次の一言。

「いつもの、回りくどい口調が良いでしょうか。単刀直入に申したほうが良いでしょうか」

「…………」

 へんだ。
 いつもこんなこと、聞いてきただろうか。一緒に住みませんかと言われたときだって、こんな前置きはなかった。心臓がことこと音をたてて、そのスピードを上げていく。何を言われるのか。想像もつかない、つまりは未知の世界に、おびえた。怖くなった。きゅ、と眉根を寄せると、古泉が苦笑する。過去、困らせてしまいましたねごめんなさい、そう言っておれに謝ってきた、そのときの顔に似ていた。

「……では、単刀直入に。結婚しましょう」

 何を言うつもりなんだろう。単刀直入に、なにを。もしもほんとうに、あなたよりも仕事が大事なのだと断言されてしまえば、おれはどうすればいいのか。わからなかった。怖かった。びくびく怯えているおれを見て、今度は古泉がきゅ、と眉根を寄せる。え、なんで、おこってるんだ。目を瞬かせていると、古泉が問う。いやなんですか。

「ぇ…なに……が?」

 唾をたくさん飲みこむと、いくらか呼吸が楽になった。ゆるく喉をおさえて声を吐きだすと、古泉はまるで呆れたように息を吐いて、テーブルにこつんと肘をつく。手の甲に乗せられた顎が少しだけシャープになっていて、ああ痩せたのかと、なんとなく思った。

「あなた、僕の話を聞いていました?」

「たんとう……直入に」

「そう。そのあと何を言われました?」

「けっ、こんしましょう……」

 聞いてるんじゃないですか、と言われて、今度はおれがポカンとする。口からするりと言葉が出たのは予想外だった。だって何も考えていなかったからだ。一度耳から入った言葉は脳を介し、理解して、そして返答の言葉を選び、口から出す。それが一連のプロセスというものだろう。
 たださっきの発言は、あらゆる部分をすっ飛ばしてしまって、理解ができていなかっただけだ。今頃何を言われたのか気付いて、頬が火照るよりも早く胸が痛む。

「……なんで…だ?」

 うれしいとか、ありがとうとか、ぜひとか、そんな言葉よりも先に疑問が口をついて出た。信じられなかったのだ。昨日の今日でこの発言ということは、古泉がおれに対して罪悪感があるからとか、責任を感じたからとか、そんな風に感じてしまって。
 おれは、そんなのはいやだった。
 古泉としては、たとえば嬉しいとか、びっくりしたとか、そういう感情的な反応を待っていたのだろうが、返したのは疑問だ。案の定、もともと男にしては大きめな瞳がやんわり見開かれた。

「……えっと……、あの……」

 いつになく歯切れの悪い発言に、物珍しさで目を見開く。思わずこちらまで動揺してしまい、二人揃ってオロオロと見合うこととなった。
 けっこん。この年になればもう随分と耳慣れた言葉だが、いざ自分に降りかかるとそれはちょっと、違う。今も心臓が激しく動いてはいるが、結婚を申し込まれたことに対するときめきとかそんな甘ったるいものではなく、ただ純粋に驚いて緊張しているだけだ。

「あ、あの。いやなんですか」

「へ」

 なんだかとんでもなく情けない表情になった古泉を見上げ、口がぽかんと開いていることを自覚する。結婚してくれないかという要望になんでだと疑問を返した。そりゃ多少どころか、結構なショックかもしれんが。

「や、その、いやって言うか……」

「わ、かりました。いやなんですね。いえ、いいんです。はっきり言ってくださらないと、僕、恥ずかしい勘違いを、」

「あの本当に、いやじゃなくてな、」

 気付けばフォローに回っている始末だ。手に負えない。自然に口から「結婚を断っている」ことに対する否定が飛び出ているのだから、古泉だってそこまで悲観することはないのだが。ただ、諸手を振って頷くことができないのが申し訳ない。
 先ほどので完全にタイミングは逃した。今度はどのタイミングで?古泉はもう諦めるモードに入っている。

「あ、あの、しごと」

 そういえば仕事があるんじゃないのか、と思ってそう口にすると、古泉は今度こそがっかりとした顔をした。仕事、そう仕事、大事ですね。そんなに今すぐ目の前から消えてほしいんですね。いえわかってます大丈夫です。どこか事務的な響きをもってそんなことを言い、椅子から立ち上がる。あれ、いま、おれは何か言ってはいけないことでも言ったのか。もし仕事があるならおれのことなんか放っておいてそっちに行けばいいって、そう言おうとしたかっただけなのに。

「こいずみ、おまえ」

「あの、もしまたここを出られるようでしたら、鍵を閉めておいてください。閉めた後はポストの中の右はじに、ああそっか、知ってますよね。はい、ごめんなさい」

「おい、待てったら」

 なんだこいつ、面倒くさいな。人の話は最後まで聞けって言われなかったのか。それが先生でも親でもいい、誰でもだ、常識的な教育をこいつにしてくれる人はいなかったのか。
 なんだか無性にいらいらして、古泉の後頭部を張り飛ばした。右手の手のひら、少しかたい部分が見事にクリーンヒットして、古泉の体がよろける。

「いっ」

 たい、と続けるはずだったのだろうが、それよりも先に振り返った古泉のネクタイを掴んで締めあげたので呼吸が詰まる音がした。

「人の話は聞け!すぐ終わる話なんだから!」

「うあ、はい、すみませ」

「謝るようなところでもないだろ!万一会社に遅れたらおれから電話しといてやるから!」

「いえ、今日は会社、ありません」

 なんだ仕事がないならいいじゃないか。しかし会社がないって発言はなんかちょっと誤解を招きそうだな。などとどうでもいいことを考えながらネクタイから手を離す。仁王立ちして古泉を見上げたまでは良かったが、そこからどうしようかなどということは一切頭から飛んでいた。

「…………」

「…………」

「……で?」

「……で、って言われても……」

 古泉が心底困った顔をする。あ、いや、そうだ。話を聞けと言ったのは、おれだった。
 とたんに落ちる沈黙、見合う瞳。古泉は今日会社じゃないから、多少無駄な時間を過ごしても問題ない。何を言われるのだろうかとビクビクしているのか、時折動く肩や顔の筋肉が面白くて、つい自分で提示したモノをほっぽりだしてそちらに集中してしまった。

「あの……」

「……あ、なんだ?」

「できれば、断る際にはわかりやす…ぅぐ」

 まだネガティブな思考に沈んでいるらしい古泉の腹に拳をキめ、もう一度仕切り直す。仕切り直すと言っても特に体勢や立場が変わったわけではない、気分的な問題だ。

「あの、な」

「はい」

「その……」

「はい……」

「……えっと……」

「……はい……」

 だめだ。なんて切り出せばいいのかわからん。
 すっかり言葉をなくしてしまったおれに、古泉はどうしたらいいのか悩んでいるようだった。いつ見ても整っていて、でもたまに、驚くほどに崩れる顔。今は不安に歪んでいて、なんだかちょっと情けないけど、実はその顔が嫌いじゃない。
 何度も見て、何度も笑いかけて、何度も笑いかけてもらったその顔が、今は暗い表情。はやく笑顔が見たかった。どうしたらいいのか考えて、考えるのに、頭の中にたいした言葉が浮かばない。情けなさで今度はおれが泣きそうになる。泣きそうな顔同士、お似合いと言えばお似合いだけれど。

「だめだぁ……」

 ぽつりとつぶやくと、まるで雨が降ったかのようにぽつりと何かがこぼれた。じわ、と滲む狭い視界。
 きっかけがない、それがないと口に出せないなんて。ああそういえばつい最近こんなことがあった。最近というには近すぎる気がするが。
 滲む視界の中でも、古泉がたいそう困った表情を浮かべたことだけはわかった。情けない、そう、情けないのはわかっている。わかっているのに止められない。泣けば解決するなんておれは思っていない。それがいやで、ぼろぼろの顔を袖で拭った。あかくなるからやめてください、と古泉が止めた。

「なあ、」

「……はい」

「なあっ、」

「はい」

 自分がいやで、いやで、いやだけど、古泉がそれを受け入れてくれるということだけはわかっているから、涙がいつまでたっても止まらないのだろう。

「なあ、おまえが言って、くれないと」

「…………」

「もういっか、いっかい、もういっかい、おれにっ……」

 なあ、呆れていいんだぞ。自分自身面倒なやつだということは十分理解している。もしおれだったら、おれみたいな人間は面倒くさくて付き合ってられんね。確実に縁を切る。それでも、古泉、おまえは、ばかみたいに優しく笑っておれを受け容れてしまうのだから。


 滲む視界に入ってきたのは、待ち望んだ笑顔と、聞いたばかりのあの言葉。