恐らくただの過労だと、思う。ゆっくりと顔を上げ、すぐに下ろした。頭に血が足りない。
起き上がろうとしても気持ち悪い。無性に吐きたい、と思った。ふらつく体をソファで支えながら起き上がらせる。
背後で「隊長?」と焦ったような声が聞こえたが、完璧に無視することにする。返事をするのも億劫、というか返事をする余裕が無い。
一体どうした。これも体が変化したからなのか?ふらふらと歩きながら、厠へ急いだ。急いだつもりだけれど、正直松本がゆっくり歩くよりも遅かったと思う。
廊下の先は日差しが強く、それだけで頭がくらくらした。立ち止まり、口を押さえる。こんなところで吐いてはいけないとわかっていたけれど、もう限界だった。
けれど、いつまで経っても口からは何も出てこない。どういうことだ。限界点をぎりぎりで踏みとどまっているといったところだろうか、ある意味これが一番辛いと思う。
「日番谷はん?」
うわ、と思った。顔を上げる余裕も、名前を呼ぶ余裕も無い。適当な柱に背を預けて、無理矢理顔を上げた。
視界に入った市丸は日差しを遮断してくれていて、こういうときだけその長身が有難い。へらりと力の無い苦笑を浮かべると、いつになく市丸の表情が変わった、気が、した。
「なんて顔色してるん……」
袴の擦れる音と、少し前まで遠かった市丸の顔が近づく気配。長い腕が伸びて、冷たい掌が額に、頬に触れた。冷たくて気持ちいい。どうせならしばらくそうやっててくれ、と思った。
市丸の、いつもは細められている目が本当に珍しく開かれている。それほどまでに今の自分は異常ということなんだろうか。
「熱い、なぁ。熱あるんとちゃうん?隊舎つれてったげようか?」
「…………」
厠へ行くために隊舎から出てきたのに、戻されては意味が無い。ゆっくり首を左右に振って、薄く唇を開いた。
は、き、そ、う。ぱくぱくと声にならない声をあげる。意味はしっかり伝わったらしく、市丸が慌てふためいて無言で抱き上げてきた。ばたつく力も出ないのでとりあえず任せることにする。厠に連れて行ってくれるのかと思ったのだが、彼はそこをスルーして走り出した。
(市丸ううううう!!?)
どこへ連れて行く気だ。市丸が廊下を曲がるために速度を下げるたび、振動が伝わって気持ち悪い。口を必死に掌で押さえているが、いつかはぼろりと何か零れ落ちるだろう。
しかし、それ以前に問題がひとつ。何故市丸は姫抱きをしてるのかということだ。元気だったら飛び上がってこめかみに蹴りを入れることもできるのに、今は満足に殴ることすらできない。
限界だ。すっと瞼を伏せて市丸の胸に倒れこんだ。意識が暗転していくのがわかる。視界の端に四番隊舎を見つけてなんだ、意外にまともな神経してんじゃねぇかと思った。
どうやら運んでいる最中に気絶したようで、ぐったりした冬獅朗を抱えたまま市丸はかくりと肩を落とした。
折角サボっていたのに、なんだかこれでは一仕事したみたいではないか。汗で濡れた背中に一瞬視線を送り、それから腕の中の小さな彼を見つめる。
力の無い体は想像以上に軽く、先日イヅルが運んできた書類の束よりも軽いんじゃないかと思うほどだった。額に汗で張り付いた前髪を払ってやり、四番隊舎に足を運ぶ。
「卯ノ花はん、いてる?」
「はい?」
戸の向こうから聞こえた声にほっとしながら、顔を覗かせた彼女の眼前に冬獅朗を持っていく。「日番谷隊長ッ!?」いつになく慌てた様子の彼女に首を傾げ、市丸はその細い腕に軽い彼を譲渡した。
しばらく様子を見ていた卯ノ花が、何故か安心したように熱ですか、と呟く。
「ありがとうございました、市丸隊長。後は私達でしますので、隊舎へお帰りになって宜しいですよ」
「んー…」
正直、このまま素直に帰るのも癪だ。もともと仕事をサボるために十番隊まで赴いたのだから。
乱菊のところへ行くのも良かったが、彼女が今冷静に自分に対応してくれるとは考えにくい。せいぜい、冬獅朗について深く聞かれるか仕事に熱中して話を聞いてくれないか。
「……や。ここで看病でもさせてもらいますわ。ええやろ?」
卯ノ花なら頷いてくれると思ったからこそ口にした言葉だったのだが。
彼女はぴしりと動きを止め、数秒思案したかと思うと首を左右に振った。少しだけ、顔に焦燥が見られるのは気のせいだろうか。なんで、と口を開く前にぴしゃりと言われた。
「申し訳ありません。市丸隊長は隊舎へお帰りください」
「へ?なんで?」
「……申し訳ありません」
理由も無く彼女が自分を返すとは思いにくい。いよいよ不思議も極まり、卯の花の腕の中で寝息を立てる小さな彼を見つめる。
まるで隠すように、卯ノ花は冬獅朗の体に薄い布をかけた。
「治療に取り掛かりますので、これにて」
言うなり閉じる戸に手をかける暇も無く、音を立てて視界が閉ざされる。しばらく呆然としていたが、頭の中では何か冷静に物事を考えていた。
―――日番谷冬獅朗に、何かある。
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