虚退治、及び日番谷冬獅朗隊長の援護・補助申請の許可は思いのほかあっさりと下りた。
総隊長なる死神を含み、隊長格は往々にして十番隊長に甘い。それは外見も何割かはあるのだろうが、彼の仕事ぶりにもある。
デスクワークのみならず、戦闘に於いても十分力になる。そんな逸材を無視することなどできなかったらしい。これが三席や四席ほどならば間違いなく許可は下りなかっただろう。
無駄に隊員を連れ死人を出すのも煩わしいと、乱菊と二人で虚出現地に赴いた市丸はまず嫌な予感を感じた。血のにおいのようなものが、する。間違いなく、この先から。緩やかな風にのって、嗅ぎ慣れた鉄のにおいが。
「……ねえ、ギン………、大丈夫、だよね?隊長、生きてるよ、ね?」
恐ろしく青ざめた彼女に無責任な言葉を投げかけることができず、その質問は黙殺した。怪我をしただけならばいい。けれど、時間が経過しすぎている。
無事ならばいいと、思った。あの強気な瞳が無くなってしまえば、後ろにいる乱菊は。彼女は。
「…乱菊、斬魂刀構えとき」
ふと風に揺れた虚空を見上げ、市丸は呟く。
浮かびかけていた涙を急いで拭い、乱菊は静かに斬魂刀を構えた。
同じように市丸も斬魂刀を虚空に向ける。
「……なるほどなァ。今回の虚は、霊圧が消せる奴か…」
「…ギン?」
かと思えば、急に斬魂刀を解放した。
伸びた神槍が虚空を貫く。なんの音もしないと思われたそれは、中間地点で鈍く動きを止めた。
乱菊が目を見開くのと市丸が笑顔を浮かべるのは同時。途端に空中へ噴き出た赤黒い液体を浴びないよう一歩後ろに下がり、虚が徐々に姿を現すのを見つめる。
「キミ、今血のにおいでいっぱいやったからねぇ」
地面に大きな影が落ち、ごつごつした表面の皮膚がまず現れた。次いで黒く空いた眼窩。何本も伸びた触手。血液に濡れた体の、丁度腹にあたる場所だろうか。そこだけが異常なほど綺麗だった。
「…お腹に抱えとんの、何?」
身動きをとらない虚にゆっくり近づきつつ、市丸は問いかける。薄ら光を放つ腹部に神槍を向け、口を開きかけた。その時。
「…………たい、ちょ、う?」
後ろで事の成り行きを呆然と見ていた乱菊が呟く。
その言葉に市丸の動きが止まった。一瞬乱菊を振り返り、それからすぐ視線を虚の腹部に戻す。てらてらと光るそこに、何か白いものが一瞬見えた、気がした。
光の屈折で見えづらい。神槍を伸ばし、その部分だけを千切りとるように抉った。「アアァァアァァァァァァア!!!!!!!」耳に劈くような虚の叫び声が入り込む。
…ゆっくり、腹に抱えていた『それ』は落ちた。地面を音を立てて転がり、殊更ゆっくりと虚から離れて2人のもとへと。
――まるで、ビー玉のようだと思った。透明な水の中で、冬獅朗が翡翠色の瞳を隠すように瞼を閉じている。体中に張り巡らされた触手だけが唯一の汚点だった。薄く白い膜に包まれたその中で、ただ彼は静かに眠っている。ただ静かに。
「い、」
乱菊が短く声を上げた。まずい、と市丸が振り返ると同時に、錯乱したように金色の髪の毛を振り乱して叫ぶ。女の悲鳴は嫌いだった。それは彼女も例外でなく、市丸の機嫌を酷く損ねた。
「いやあああぁぁぁぁぁぁ!!!!!」
叫んだまま、その場に崩れ落ちる。
宥めに行こうと踵を返した。その瞬間、背後で何かの気配を感じて飛び退る。虚が、弱弱しくながらも市丸に攻撃を仕掛けていた。
まるで冬獅朗を守るように、ぶんぶんと触手を振り回す。それを悉く斬魂刀で切りながら受け流し、ゆっくり乱菊の元へと下がる。
「いや、いやあぁ、たいちょ、隊長、たいちょう」
瞳からぼろぼろと涙を流す乱菊に、いつもの冷静さは欠片もない。
どうしてここまで錯乱しているのか。戦場では彼女はいつも誰が怪我をしようと冷静で、且つ強固だったというのに。
「大丈夫や、乱菊。多分、日番谷はんは生きとる。…せやから、早う起きて。この虚を倒さんと」
無責任な言葉を吐いてまで彼女を宥め、それから市丸は神槍を伸ばした。再び、虚の体を貫く。鈍い悲鳴を上げて、虚は静かに倒れこんだ。
ついでだからと冬獅朗の体を覆い包む膜に刃をたてる。ぷつりと僅かに手ごたえがして、破れた箇所から水のようなものがどろどろと溢れた。
「隊長!」
叫びながら、乱菊が冬獅朗の元へと走り寄る。途中、数回足をもつれさせていた。
目を閉じたまま動かない冬獅朗を見て青ざめ、意識を飛ばした。
倒れこむ乱菊を支え、市丸は冬獅朗の顔を覗き込む。体中にへばり付く触手をぶちぶちと千切りながら、顔色を伺った。
多少青ざめてはいるが、大丈夫だろう。根拠もなくそう思いながら、呼吸を確かめる。手を口元に持っていく。
「………、」
息は、無かった。
急いで脈拍を確認する。病的と思われるほどゆるかったが、一応脈はあった。まだ間に合うと、冬獅朗を仰向けに寝かせて気道確保する。
「…人工呼吸ってどうやるんやったっけ……」
一応蘇生方法は習ったのだが、如何せん自分から行動を起こさない人間なので全く思い出せない。
呻りながらも、とりあえず冬獅朗の鼻をつまんだ。それから顎を持ち上げ、口元を自らのそれで覆う。小さな口に息を吹き込み、数回それを繰り返す。
それから胸の丁度中間辺りを掌で押さえ、押した。小さな体が振動で震える。その時市丸は妙な違和感を掌に感じた気がした。けれど今はそんな場合ではないと振り切り、また人工呼吸に取り掛かる。初キスやったらごめんな、なんて軽口をこぼしながら。
数回それを繰り返したところで、「え、ふっ…」冬獅朗が小さく息をこぼした。
苦しそうに咳き込み、それから自分自身の体を抱きこんで丸くなる。全身が痛むと言わんばかりに力強く眉を寄せて、何度も呻った。
それから、腹部をぎゅうと押さえ込み、再び意識を混濁させる。無事を確認し、ひとり残った市丸は、疲れたと言わんばかりに長い息を吐いた。
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