―――このことは秘密にしてくれないか。卯ノ花から見て、十番隊に十分な仕事の支障を感じられたら遠慮なく報告してくれればいい。ただ、何の支障も感じられそうになければこのまま、内密に。このことは卯ノ花および四番隊の死神に責任は無い。もし罪に問われたら、俺の責任だと言ってくれればいい。

文書であったり何らかの証拠が残るものに書けば万一でも見られる可能性がある。それを踏まえた冬獅朗は、口頭で上記の内容を伝えた。
責任の有無はともかく、卯ノ花自身も混乱していたためか、あっさりと承諾してしまった。そもそも、一人の男が女に変化するということ自体が既におかしいことなのだ。多少の混乱も否めない。
いずれ公に晒されることにはなるだろうとは思ったが、それまでは黙っていてあげようと彼女は思った。十番隊の報告書に目を通しながら、小さく息を吐く。
窓の外を見れば、橙色が落ちていた。






執務室を開けた瞬間視界に飛び込んできたのは肌色、それだけだった。

「ッぶ!」

小さく声を上げる。問答無用で押し付けられた胸をなんとか押し返しながら、「…松本テメェ!」弱った上司に容赦ない副官に怒鳴りつける。
けれど、首の後ろに回った腕はなかなか外れなかった。結果的に胸がまた顔に戻ってくるということだ。呼吸困難に陥ったらどうしてくれる、と心中で考えながらかくりと首を傾ける。
後ろ手で扉を閉めると、動きを止めた。下手に動けば暑苦しいし、まだ体の疲れが取れていない。疲れるのは嫌いだ。
ぴたりと動きを止めてみれば初めてわかる、自分を抱きしめる副官の震え。

「…松本?」

小さく声をあげて顔を上げたが、目には胸しか入らない。こういうときに邪魔だと思う。人の胸にケチをつけるのはどうかと思うが。
頭の頂点あたりにはたりと冷たい感触を覚え、眉を寄せた。次いで、額の上に落ちてくる雫。鼻筋を通り、口元まで落ちてきたそれをなんとはなしに舐めてみた。塩辛い。

「泣いてんのか」

「…………………」

沈黙は肯定だと思うことにする。
左手で顔に流れる涙を拭うと、半ば無理矢理彼女の腕を取り払った。そうして現れた金髪の美女の瞳には、大量の涙。
精一杯背伸びして、袖でちょこちょこと涙を拭ってやる。静かに泣いていた乱菊がそうっと嗚咽を漏らし始めたのはそう遅くない話だった。
ひくひくとしゃくりあげる年上の部下を見上げ、冬獅朗は改めて疲れた息を吐いた。一体何なんだ。
慰めの甲斐も無く泣き止む様子の無い乱菊にそろそろ苛立ってきて、涙を拭う手を止めた。
仕事が溜まっているであろう机に向かうため、彼女の横をそっと通り過ぎようとする。

「……うおッ!」

と、横から伸びてきた手に抱え上げられて一気に視界が回転した。落ち着いた思考で自分の置かれた状況を確かめる。確かな感触を背中に感じた。てめぇ、ともう一度呟く。
今度は冬獅朗を背中から腕に抱えてしゃがみこんだ乱菊は、ひどくしゃくりあげた。ひくり。耳に直接入り込む嗚咽になんだか良心が酷く痛む。

「たいちょう、たいちょ」

「なんだ」

ようやく言葉を発したかと思えば、5歳児でももう少しまともな発音をするだろう、そんな言葉だった。ひきつりながら唯何度も隊長隊長と口にする彼女の年を指折り数えてみようかとも思う。けれど片手どころか両手でも足りない、さらに言えば一日かかるほど長い年月を生きている彼女の年を数えるなどと愚行に違わないことで。あきらめて言いたいままに言わせてやった。

「あたし、心配したんです、たくさん心配」

落ち着いてきたのかまともな発音でそれは耳に届いた。
ひくり、と冬獅朗が反応する。そうだ、確かに。鬼道をかけてまで無理矢理一人で突っ走って、挙句勝手に怪我をして。これではこの処遇も仕方ないと思える。

「悪かった」

素直に謝れば、再び彼女はたいちょ、たいちょうと拙い発音で冬獅朗を呼び続けた。
彼女はこんなに脆い死神だっただろうか、と考えて思い直す。それほど自分が信頼されていて、大事にされていたのだと。それからあまりの恥ずかしさと嬉しさで顔を真っ赤にして顔を伏せた。と同時に許可も挨拶も無く執務室の扉が開き、見慣れた狐顔が入ってくる。

「……お邪魔やった?」

「うああああああん!!!」

「うるせぇ松本!変な誤解してんじゃねぇ市丸!」

三種三様の反応を示し、そこで大きく鐘の音。業務の終わりを告げる音だった。