「さむい、な」

口からころりと零れて出たのはそんな呟きだった。
隣を通り過ぎた、目元に小じわのあるスーツ姿の男に見られたけれどそんなことを気にして いるほど心に余裕があるわけでもない。
パアアア、と大きな車のクラクションに多少の眩暈を感じつつ、足を進める。薄暗いアスフ ァルトの道はやけに硬かった。同じく硬い靴底が、不協和音のようにかつかつと音を立てる 。
なぜか今日はひどく疲れていた。
小脇に抱えた鞄の中から眼鏡を取り出す。別段、視力が悪いわけではない。けれど時折、風 が目に入らないように伊達として眼鏡をかける。
立ち止まり、空を見上げた。青黒い空。灰色の景色が頭の中によみがえって、すぐに消えて いく。ささやかな光と誰かが携帯を開き、そこから漏れる光。目が痛い。

「あ」

どん、と軽い衝撃と共に小脇に抱えていたファイルが落ちた。
まるでベタなドラマのように、ザァァ、と中身が零れ落ちたファイルをまるで他人事のよう に見つめつつ、思い出して息を軽く吐く。「すいません、よそ見してて――、」焦ったよう な、そしてどこか記憶に引っかかる声にほぼ反射的に顔を上げれば、見知った顔と目が合っ た。

「げ」

「とは、どういう意味ですか?」

そしてその顔は突如しらけた表情へ変わる。
ある種の尊敬すら覚えるほど、切り替えの早い表情だな。と、今更のんびり考えた。相手が 僕だとわかったその瞬間の、脳内の中を見てみたい。謝るべき対象から蔑むべき対象に変わっているように思えるのは気のせいなのだろうか。

「相手がお前だったら謝らなかったのに」

まるで吐き捨てるかのように呟いた彼に苦笑しつつ、そうですか、と返す。どこまでも嫌わ れたものだ。いや、彼の場合は純粋に、こちらに向ける好意が無いだけだろう。嫌い、とい う感情でこちらの対応をしているわけではなさそうだ。
かき集めた書類をトントンとそろえるその姿に、几帳面だな、と冷静に考える。悪態をつく わりに、自分のしたことに対しきちんと罪悪感を感じ、償いを連想させる行動を起こす。

「ありがとうございます」

受け取る瞬間に、指が触れた。
触れたその瞬間に、彼は“うげ”とでも効果音がつきそうな表情を浮かべ、即座に手を引っ 込める。まるでその、病原菌に触れたかのような反応はやめてほしい。少し物悲しくなる。
その後、何事も無かったかのように立ち上がり、ダッフルコートのポケットに手を突っ込ん だ彼はこちらを見上げた。たいして差のない背丈でも、やはりかすかに見下ろす形になるの が悔しいのだろうか。彼の眉と眉の間には、気づくか気づかないか程度の皺がよっていた。

「こんな時間に、何してんだよ。またアレか」

「恐らく、だいたいはあなたの思っていることで間違いはないかと」

何も変わらない日常だった。
いつもどおりの周期で閉鎖空間が発生し、神人を破壊し、報告書を提出しに行く。何も変わ らない。何ひとつ。
手の中に落ちた書類が、冷たい。

「………ま、お疲れさん」

「はあ…、どうも」

「なんだその、どうでもよさそうな返事は」

別にどうでもよさそうな顔をした覚えは無い。ただ、純粋に驚いて反応が鈍っただけで。
浮かべていた笑顔が引きつったけれど、それは気づかれなかっただろうか。彼は変なところ で鋭いから。
ふと顔を上げれば、歩行者用の信号が点滅していた。渡ろうとしていたのだろうか、残念そ うな表情を浮かべた彼の横に立つ。「…なんだよ」不機嫌そうに、けれどしっかりこちらの 目を見つめて呟く彼に目を細めて視線を返せば、無言。

「いえ。あなたは、こんな時間にどうされたのですか?」

「…妹が急に熱を出してな。冷えるシートのアレを買いに来たんだ」

「そうですか。それは、お大事に」

彼は黙りこくり、歩行者用の信号を見上げていた。
つられるように赤い光を見つめる。赤い色。どこかでよく見る色だ、と思いつつ口角を持ち 上げると、「お前さ」空気を裂くような、静かな声がした。

「はい?」

かすかに見下ろした位置に、真っ直ぐな瞳がある。
この瞳がどこまで何を見透かしているのだろうと考えると、いやに笑いが止まらなかった。 「………いや、なんていうか」

「はあ」

「…………………お前、どこまで本物なんだよ」

「―――…、は、」

問いかけようとしたその瞬間、彼が走り出した。
危ない、と叫ぼうと口を開き、眼前をバイクが過ぎったことに急いで身を引く。まだ光は赤 い。向こう側に渡った彼が、バツが悪そうに少しだけ俯いたのが見えた。
ただ叫んで呼び止める必要性も感じず、引き止める理由も浮かばず、走り去るその背を見送 る。頭の中には、彼の問いかけがひたすらにぐるぐると回っていた。