おもえばこれは予兆だったのだ。

ボードの上に置かれた黒い面をひっくり返す。1つ、2つ、3つ。角を既に3つも取っている上、恐らく次のターンで4つ角を取ることは確定だ。
一体これはわざとなのか本気なのか。判断をつけるのが難しい。そいつは今も笑っていて、角を取られ、手駒が既にほぼ色を白に変えられていると言うのに、顔色ひとつ変えやしない。
またそれが不気味だ。

「それじゃあ、ここで」

「…おい。お前、ほんとにそれでいいのか」

見かねて声をかけてやったのに、そいつは首をかしげてはい、と呟いただけ。
折角の人の厚意を。まあいいか、どちらにせよこちらが勝つのだし、と角を取り、続けて5つひっくり返す。ボードの上が真白に染まる。

「ああ……、また、負けですね」

「だからさっき情けをかけてやったのに」

「情けだったんですか。あれ」

ジャラジャラと音を立てて箱の中に乱暴にオセロを仕舞い込めば、そいつが零れたものを拾って静かに箱の中に落とす。哀れんでいるような手つきに少しいらいらした。負け続けるこの男にいつか負ける日は来るんだろうか。いや、恐らく来ないだろう。賭けてもいい。
じゃあ次は何をしましょうか、と言い出したそいつを尻目に、参考書を取り出した。数日後には恐怖のなんとかテストというものがあるからだ。どれだけ努力をしても、いや、実際に努力が足りないだけだろうが、常に低空飛行を続けるテスト。点数。
目の前のやたらとつくりのいいこの男には、テストに対する杞憂なんてあってないようなものらしい。

「勉強、ですか。随分精力的ですね」

「このままいったら間違いなく呼び出し決定だからな」

筆箱の中からシャーペンを取り出し、カチカチと数ミリ芯を出し。白い参考書の上にメモ書きをしながら、教科書に目を通す。覚えるものは覚え、いらないものは斬り捨てていく単調な作業。俺の呼吸の音すら聞こえない、やたら静かな室内。部室だというのにこの静かさはどうしたというのだろうか。理由は簡単。俺とそいつ以外に、誰もいないから。
オセロゲームを切られ、暇が出来たのか。視界の端に映るそいつは微動だにせずこちらを見ているようだった。いつもなら見るなとか、何かを言っていただろう。今はそんな余裕すらない。

「勉強しながらで構いません、話を聞いていただけますか」

「ああ」

参考書に文字の羅列を並べながら、ほぼ無意識に返した。
そいつの言葉なんて右から入って左に抜けて、さらには地面に落ちるくらいに頭に入っていない。理解する細胞を使うことをやめて、今はひたすら書き写すのみ。そいつの明朗な声が静かな室内に響く。

「一昨日、あなたは言いましたね。『お前はどこまで本物なんだ』と」

「ああ」

アドルフ・ヒトラー、1920年にナチス結成。ハーケンクロイツ採用。アンネ・フランク、本名アンネリーズ・マリー・フランク。代表作アンネの日記。1942年から1944年まで。

「あれから、ずっと考えていました。あなたの言っていた言葉はどういう意味を持っていたのだろうと。僕の理解力が乏しいからでしょうか、今もあの質問の意図がわからないのです」

「ああ」

ベルゲン・ベルゼン強制収容所。チフスで死亡とされている。ユダヤ、ヤコブの子ユダにちなみ命名。ユダはキリストの弟子、裏切り者の代名詞。

「もしその質問の意味が、『浮かべる笑顔や吐く言葉全て』に対するものなのだと解釈すれば、答えは出ます」

「ああ」

次の漢字の読みを応えよ。杜撰―ずさん。肯定―こうてい。丘陵―きゅうりょう。紡錘―ぼうすい。頒布―はんぷ。衣鉢―いはつ。

「どれも、本物ですよ。僕の意思で浮かべるものです。機関は一切関係ありません、機関に笑顔を浮かべろと命令されたから浮かべているわけでも、こう喋れと命令されたから喋っているわけでもありません。全部、僕が決めて、行動しているものです。嘘偽りは何も無い。今のところは、ですが」

「ああ」

次の読みを漢字に直せ。かもく―寡黙。こんきゅう―困窮。ゆうちょう―悠長。きょうじゅん―恭順。ごへい―語弊。

「…それだけです。もうそろそろ、帰ることにします。もしまだこちらに残るようでしたら、鍵はよろしくお願いします」

「ああ」

「それでは」

ガタン。カタン、コトン、カチャ。パタリ。コツ、コツ、コツ、コツ。

足音が遠ざかっていく。
完全に聞こえなくなった後で、顔を上げた。結局参考書に書いていたものは半分程度も頭の中に入っていない。全く、聖徳太子とやらはすごいものだ。10人の話を一気に聞いていたそうだから。いやしかし、それは今ではガセだとも言われているらしい。それも当然か。
あいつのいなくなった室内が、妙に寒い。片付けたオセロを再び取り出して、机の上に置いてみた。対極に座る人間は誰もいない。弄びつつ、ボードの上に白黒を交互に並べていく。
何をやっているんだと気づいてやめた頃には、最後の1個を乗せて終わりだった。

「………」

ボードの縁に手を引っ掛け、思い切りひっくり返す。がちゃん、ころころ。情けない音を立てて転がっていく白と黒を、ぱちぱちと瞬く視界の中で見ていた。
こんなにも、あの男がわからないと思ったことは初めてかもしれない。理解が、できなかった。あれも嘘なんだろうか。今のところは、ということは、いずれ嘘を吐くということだろうか。それに、言葉には明らかに矛盾が含まれている。あんな作り笑いを、自分から浮かべて満足してるっていうのか。いくらハルヒのためとはいえ、そんな10円ハゲを作りそうなくらいストレスの溜まる所業をするっていうのか。
考えられない世界だ。

転がったオセロを仕舞う気力も出てこず、パイプ椅子に背を預けて数秒天井を見上げた。
夕日どころか既に暗い光が差し込み始めているような気がして、立ち上がる。オセロは、明日にでも直せばいいだろう。今日はもう面倒くさい。踏みながらドアまで行き、邪魔なものは蹴飛ばした。
握ったドアノブが、いやに冷たい。

思えば、

全てが変わり始めていたのだ。水面下で泳ぐ大人しい魚のように。ひっそりと。けれど、確実に、音も立てずに。
ただ、それに気づかなかったというだけで。