マニュアルどおりに進むのだとしたら、こいつを突き放すのがベストだ。
だけどそのときの俺にはいっそ奇妙なまでの勘が冴え渡っていて、脳が『こいつを突き放すな』と命令しているようだった。色の白い顔。温度の抜けた掌。すがり付いてくる指にたいした力は無い。
思い当たる何かがふいに頭を過ぎった。そのときには、もう呟いていた。

「風邪か」

「………お恥ずかしい、限りで」

こいつでも風邪を引いたりするんだという事実に、やや驚いたのは秘密だ。よろよろといっそわざとらしいほどによろめいて、肩から手を浮かせるその白い手を今更ぼうっと眺める。
大きな、そして筋張った指。純粋に、たくましいと思う反面、弱弱しいと思う。
そもそもこいつがこんな風に誰かに縋る、なんてことは今まで1度も目にしたことがなく、強いて言えば恐喝まがいのお願い事くらいだろうか。それがいまや、見る影も無いくらいに弱弱しく他人の肩を掴んでいるのだからお笑いだ。
決してこいつに過大な好意を持っているわけではなかったが、病人相手に離せと文句を言えるほど鬼畜でもない。弱弱しい微笑を浮かべるそいつに向かって口を開く。

「1日くらい休んだらいいだろ。俺からハルヒに言っておくぞ」

「…いえ。そこまで、ひどいものでもありませんから」

「お前のそれがひどくないなら、ここまでみっともなくよろけるはずも無いと思うんだが」

手厳しいですね、と言って笑ったそいつに今更激しい違和感を覚えた。
ハルヒだって人間だ。非人間的な行動をとることはあっても、自らの仲間と言ってもいいカテゴリに存在する人間にまで非人間的な行動を起こ――さないとは言い切れないが、起こさない、だろう。相手が俺だった場合はわからないが。
ここまで執拗に、ハルヒに固執する理由なんて無いんじゃないだろうか。少なくとも、今日は。風邪を引いて体調を崩しているというのに、部室に来ないからイライラして閉鎖空間が発生だなんておかしすぎる。あいつにだって、理性くらいはあるはずだ。
それとも、何か。『機関』は、風邪を引いてちょっと熱が出てるくらいなら、構わず観察を続けろとでも言うのだろうか。だったら違う奴を寄越せば済むような問題ではないだろうかと、思うのは間違っているのだろうか。
聞こえは悪いが、こいつから聞いた話だと機関は小規模でも人数はそれなりにいるようだ。ならば、こいつ1人にハルヒの観察を任せるなんてことはせず、もう1人くらい追加でSOS団に入れればいいような――何を考えているんだ。これ以上奇怪な人間に増えられても困る。
半ば強引にそいつの鞄を持たせると、昇降口へと背中を押した。当惑する笑顔には見ないふり、だ。かすかに熱い、布ごしでも伝わる熱さが、掌にじんわりと滲む。
9月の、もう10月に入るか入らないかの、涼しい日のことだった。