夏に風邪を引く人間は馬鹿だと言われているが、残暑に風邪を引いた場合は一体どう言われるのだろう。
中途半端な馬鹿?いや、これでも多少なりとは自分を評価しているつもりだ。少なくとも、一般的に言われる馬鹿ではない、と思っている。あくまでこれは自称であり、「やれやれ」が口癖の彼からしてみれば涼宮ハルヒにイエスマンとして付き添っている時点で馬鹿だとでも言われるかもしれないが。
体温計はまだ鳴らない。これは、いけない兆候だ。熱がどんどん高まっていくのが自分でもわかる、はっきりとした体の重み。だるさ。
機関への連絡だけは欠かさず、それから涼宮さんへの連絡も欠かさずした後で、まるで思い出したかのようにベッドに沈んだのはいい。それだけなら、まだいい。けれどその後が無駄に問題じみていたかもしれない。汗をかいたシャツを着たまま眠りについてしまったのがいけないのかもしれない。どちらにせよ、目覚めてから熱を計るということは、ただの自己満足に過ぎなかった。なぜなら、もうこれ以上熱が上がることはないだろうと、それほどまでに熱があるのだろうと、わかっていたから。

「…39度、……」

それでも音が鳴らないのはどういうことなのだろう。
これ以上上がり続けられると、さすがに1晩で熱が下げられる自信が無い。返って来た涼宮さんの返信は、1日で熱を下げなさい、というなかなか理不尽な注文だった。
枕が湿るほどに汗をかいたのか。しっとりと冷えた枕カバーを外し、鞄の中からタオルを取り出すと枕の上に置き、頭を乗せる。掌、特に指先の感覚が、無い。
ふいに、ノックの音がした。首をもたげて、数秒思案する。家を知っている人間は、数少ない。機関の人間でも、知っていたとして、足を運んでくる者は極小。SOS団の人間でも、どこかハッとしない。新聞の勧誘なんてベタなものがここに来るはずもない。
だるい体に鞭打って、ドアまで足を運ぶ。その間にも律儀に沈黙を守る体温計を落とさないようしっかり支え、ドアスコープに目を近づけた。

「……は」

よろめき、その拍子でドアノブにぶつかる。腕を強く打った。痛みに悶絶する暇も無く、静かにドアが開かれ、半ば事故的に姿をのぞかせた人物にぶつかる。「うおっ」相手も反射だったのだろう、こちらの肩を支え、後ずさったようだった。

「…おい、病人がなんつー格好してやがるんだ」

「…あなた……、どうして」

片手に見慣れたスポーツ飲料の入った袋を提げた彼に、いったいどういうリアクションを取ればいいのか迷った。こういうとき、どんな表情を浮かべたらいいのだろう。…わからない。でも、決していやな気持ちではない。

「ハルヒ曰く、副団長の世話をするのは団員の義務だそうだ」

「はあ……ご足労をかけたようで」

「全くだ」

玄関先で佇んでいる彼を部屋の中に招き入れる。とにかく、熱で浮かされた頭はどうにも落ち着かなかった。一種の、吊橋現象にも似たような、心臓の動悸。こんなときに限ってタイミングよく体温計が音を立てる。
すかさず横に立った彼が、まず先にディスプレイを覗き込み、それから一瞬、顔を青くした。

「おまっ…、39度4分って、おい!!さっさと寝ろ!!あとシャツも着替えろ!!」

てきぱきとベッドに引っ張ってくれたどころか、どこから探し出したのか替えのシャツまで用意してくれ、部屋の暖房まで入れてくれ、あまつさえ持参したのか林檎までむいてくれる始末。反応に困ってひたすら見上げていると、馬鹿寝てろ、と一蹴される。
けれど、起きていなければ林檎を食べることはできないのではないだろうか。それとも、彼が自分自身で食べるために買ったのか。だとすれば、彼はどこまで林檎を見せ付けたいのか。まさかそんなわけ、無い。
むけた林檎に派手にナイフを刺し、食うなら食って寝てろ、と言い、どこかへ姿を消した彼。その手に脱いだシャツが握られていたから、恐らく洗濯に回してくれているのだろう。随分と、かいがいしいものだ。
涼宮さんに頼まれたからと言って、彼がここに来なければいけない理由にはならない。彼は、断ることだってできるのだ。表面上は頷いて、後から電話で話を裏付けてもいい。なのに彼は、律儀にここへ訪れた。
いっそ馬鹿馬鹿しいほどのお人よしだ。
戻ってくるなり、不機嫌そうな顔をしてドアに体を預ける彼をまた見上げる。

「…おい、さっさと寝ろ。お前が寝たら俺も帰るから」

「そうですか。すみません、まだ眠れそうに無いので、帰ってくださって構いませんよ」

微笑を浮かべたつもりだったのに、彼は不服か、または不満を覚えたらしく、今までに数回しか見たことの無い、奇妙に怒った表情を浮かべた。そうかよ、と吐き捨てられた言葉と共に、見慣れない青いシートが投げられる。冷たいそれをしばらく眺め、そういえばこれは熱を冷ますシートだったな、と思い当たり、透明なフィルムを剥がした。

「じゃあ俺は帰らせてもらうぜ。さっさと熱下げろよ、ハルヒがうるさいんだ。あとそんだけ熱が高いんだから病院にでも行けよ、林檎だけじゃ熱は下がらねえぞ」

「はい、どうも、ご親切に」

「…」

無言で背を向け、一直線にドアへと歩いていった彼を見送りつつ、静かに体を倒した。体が、熱い。そのくせ、腹だけが場違いなほどに冷えてきている。口内に残る奇妙な甘さが、どこか気を楽にした。
ドアが閉まる音がして、目を瞑る。彼のお人よしさには、少しだけ呆れた。苦手としていた部類に属されるだろう、彼の優しさが、なぜか嫌いにはなれなかった。