夢を見た。信じられない夢だ。
僕は街道を走っていた。誰もいない閑静なその場所を、狂ったように走り続ける僕を後ろから追いかけて撮影しているかのような画面。
僕は走って、走って、走っていた。ここは閉鎖空間ではなかった。それというのも、色があったからだ。夢に色がつくことは滅多に無い、とどこかで聞いたような気がする。たいていはモノクロか淡色、2色遣いなのだと。
よって、この色彩豊かな空間は閉鎖空間ではないということが立証された。もし閉鎖空間なのであれば、空の色がこんなに青いはずが無い。そこを走りながら、僕はただ誰かを探しているようだった。閉鎖空間ではないのに、誰もいない街。喧騒が聞こえない。人の、呼吸の音すら。自分の狂ってしまいそうな心臓の早鐘がどどどどど、と連続して波打つだけだ。
ただ僕は、探していた。縋りつける誰かを。縋りつけることのできる人間なら誰でもよかったというわけではなく、けれど、頭の中に明確な人間像があるわけでもなく。ただ、『誰』かを探していた。『誰』を?――わからない。
見慣れた街角を曲がり、走り、飛び上がり、時折立ち止まる。どこを見渡してもどこにも誰の姿も見えない、僕は、少しだけ項垂れた。まだ行っていないところは、ある。そこへ足を向ける。
坂道を駆け上りながら、僕は何かを叫んでいるようだった。何を?――わからない。ただ、大きな声で、誰かを呼んでいるようだった。今更おかしな話だが、この世界には最初から音なんて無かったのだ。僕が走る音すら聞こえなかった。
僕がかたどる唇を見ても、何を叫んでいるのか想像がつかない。いよいよこれは目が覚めるのを待つしかなさそうだ、レム睡眠ノンレム睡眠、夢を見るのは目覚める直前。もう少しで覚めるはずだと自分に言い聞かせて。

「    」

坂道を駆け上り、見上げた校舎もやはり閑静としていた。土足のまま上がりこみ、罪悪感もなしに廊下を踏みつけ、見慣れた文芸部室へと。
ドアを開ければきっと誰かがいるだろうと直感した僕は、確かに何も間違っていなかった。

間違っていたのは何だ。

「    」

僕は再び口を開く。どうやらさっきから、ずっとこの人の名前を呼んでいたらしい。それもまた奇妙な話だ。夢の中で僕はさも当たり前のようにこの名を口にしているけれど、現実では僕は呼んだことはおろか呼ぼうとしたことすらない。それが当然だと思っていた、から。
すわれよ、と声にはならずとも聞こえた気がした。誘われるように椅子に座り、正面から見つめる。夢の中とは思えないほどにリアルな表情をしていた。まるで、長年待ちわびていた恋人に向けるような、優しくて悲しい笑顔だった。
ここにいる理由は何ですか、と僕は全力で問いかけたい。けれど、口から出たのは全く違う言葉。

「    」

彼の名前だった。









ぱちりと開いた目に真っ先に飛び込んできたのはデジタルの置時計のディスプレイ。
まだ短針は4をさしていた。…これは、少し早すぎる。もう1度くらい寝てしまっても文句は言われないだろうと考えつつも、まだ胸の動悸が治まらない。
眠る直前に彼を見たからだろうか。だから、強烈に印象に残って夢にまでご足労いただいてしまったわけだろうか。あまりに、あまりにもリアルな夢だったから。どうしてあんなに、彼は笑っていたというのか。奇妙なほどに、穏やかに笑っていたというのだろうか。これは、もしや悪夢か。僕を引きずり込むための、どこかだなんてわからないけれど、罠なんだろうか。駄目だ、きっと僕は、疲れているんだ。

(あの笑顔に一瞬でも惹かれてしまっただなんて)

悪い夢だと片付けることにした。