開けた視界の中に入ってきたのは絶望だった。
灰色の空間、見慣れない巨体の異物、知るはずもない球体、備わってしまった能力。吐き気がする。狂ってしまいそうだ、と思いながら、あまりにも冷静にその様子を眺めている。
まだ夢は終わらないのだろうか。それともこれは現実なのか。そんなはずは無い、これは3年前の僕だ。
項垂れているその姿が、そういえば確かにこんな格好でうずくまっていたな、と記憶と同調する。あまりにも絶望的だった。何も知らないまっさらな器にいきなり黒の油絵の具をぶちまけられたときの感覚。もう戻ることも知らないふりをすることもできないんだと瞬時で悟り、聡い子だと微笑まれた思い出。
「古泉一樹君」
名前を呼ばれた僕はゆるゆると顔を上げた。
記憶の中で褪せていたはずの記憶が真新しく塗りなおされるその瞬間が、なんと絶望的なことか。時間にあかせて忘れかけていたのに。忘れることはできないなりに、薄れることはできるだろうと考えていた僕の思いを、強烈なハンマーで粉々に破壊された気持ちだった。
「はじめまして。私は森園生」
年齢不詳の笑顔が僕の瞳を強く見つめる。
「もう、何も言わなくても、わかるわよね?」
彼女は知っていた。僕が何で、どうしてここにいるのか。どんな力を備わったのか。どうあがいても逃げられないこと。説明をしないでも僕がわかる理由。
全てを理解していたからこそ、無駄の無い発言だ。
僕は頷いた。
「俺はなあ、古泉、俺は、土気色を素で表現する人間に初めて会ったぜ」
一種の感動をありがとう、と言って、彼は僕の肩をぽんと叩く。
お礼を言われる理由が見当たらなかったが、彼なりに感動するものがあったのだろう。いつもの微笑みでそれをやりすごし、改めて自分の顔に手を当ててみた。なるほど、彼が言うとおり、土気色でもおかしくはない温度と乾燥度。
鏡が見てみたいな、と思い、ふらふらと立ち上がる。けれどよろめいて、咄嗟の判断で再び椅子に腰を落とした。正面で、やっぱりなとでも言いたげに眉を寄せる彼をぽかんと見つめると、小さな手鏡を渡される。誰のものだろう、まさか彼の。そんなわけはない、どこぞの女の子ではあるまいし。
「それ、使ったらあの棚に戻しておけよ」
「どなたの、ですか?」
「知らん。探したらあった」
端々が古びていることから、恐らくもともとこの部屋にあったものだろうと考えつつ、ゆっくりとした動作で鏡を自分の顔まで持っていく。少しだけ、後悔した。これはひどい。彼でなくとも、感動するだろう。土気色、そうだ、まさにその言葉が正しい。
風邪は奇跡的に下がったものの――恐らくあの夢を見たことで体中から汗が出たからだろう――、この顔色ではどちらにせよ早退は免れそうに無い。
「お前、帰れよ」
「しかし、」
「大人しく帰って、とにかく寝ろ。その状態でハルヒのビッグボイスに耐えられるとは思わん」
「…」それも、そうかもしれない。
この状態では彼女の前でいつもどおりの笑顔は浮かべられそうに無い。いや、仮に浮かべることはできたとしても、それだけで、たとえば受け答えであるとか、軽い反応でさえ、できそうになかった。彼には迷惑をかけてばかりだなと苦笑すれば、心を読んだのか、はたまた表情でなんとなく察したのか、気にするなよ、といつもどおりの声音。
ゆっくり立ち上がり、鞄を持って頭を下げた。彼は軽く手を振る。まるで石になったかのように動かない長門さんが、心持ち顔を上げたように思えた。それは錯覚だっただろうか。
再び彼に視線を戻した瞬間、夢の表情がフラッシュバックする。あれほどではないが、優しい顔。いたわるような顔つきに、どうしてか胸が痛くなった。長机に左手を置いて、彼の瞳を覗き込む。どこまでも安らかな色をしていた。
「そういえば、夢を見たんです」
「へえ。そりゃ、良い夢だったか、悪い夢だったか」
「そうですね、どちらかと言えば、悪夢でした」
「そうか」
だからお前は疲れているんだ、ホットミルクでも飲んで寝たら心地良く眠れるそうだぞ。そう言ってまた笑った彼に、つられるように口角をさらに上げる。瞬間、彼から、ホットミルクのような安らかな匂いがしたような、気がした。ああそうだ、本当にホットミルクが飲みたくなってきた。帰り際にどこかで牛乳を買おう、と思い、首を傾ける。
「あなたが出てきました」
「そうか。俺は一体何をしてたんだ?お前を崖っぷちまで追いやってたりでもしたか」
鞄の中から参考書を取り出しつつ軽口を言う彼に、言葉のかわりに首を振る。
「ただ、静かに」
左手を離すと途端に指先が冷えた。
シャープペンシルを指に引っ掛けて、くるりと1回転をさせた彼は、参考書から顔を上げる。
「笑って、いましたよ」
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