彼は何も言わず、不愉快そうな様子も見せず、そうか、とわらった。
笑い方があまりにも穏やかだったので、一瞬夢の中の出来事を彷彿させて、そして泡のようにするすると消えていく。熱に浮かされたからだがふわふわと揺れて、今にも倒れそうだった。
「少なくとも、現実の俺じゃないな、それは」
それはあたりまえのことですと、言う余裕すらも無かった。
彼は上体をかがめて、そっと自分の持つ鞄の、中途半端に開いた部分に手を突っ込む。手荒なのにそんな様子を微塵も感じさせないように、ずるずると黒いカーディガンを引きずり出した――カーディガン、もうそんな時期だろうか。そうか、残暑。もうそろそろ肌寒い季節になる。
「俺は頓着しないが、オフクロがな」
そう言って、かすかにぐしゃぐしゃになったカーディガンを僕に突き出す。
着ろよ、と語っているような瞳。いいんですかと口にする。いいんだよと彼が言う。
「役得です」
呟きながらカーディガンを羽織った。汗にしみた半袖が、やや長い袖で隠れる。汗が染み付いたら彼に失礼だから、今日中にクリーニングでも出そう。
「クリーニングに出そうなんて考えるなよ。いらん世話だからな」
「………」
読まれているなあ。
今度こそ帰るべきだと、机の上に置いていた鞄を肩にかける。長門さんがパラリとページを捲る。彼がシャープペンシルを紙面に叩きつける。
「あなたは、変なところで優しい」
顔を上げた長門さんが、僕を見てすぐに顔を下げた。
彼は僕を見ないで笑っただけで、またシャープペンシルを紙面にこつこつと叩きつけると、「はやく帰れ」と言って左手を上げる。
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