あいつがよろよろと帰宅し、いつものようにハルヒが光源のような笑顔を浮かべて部室に入ってきたのももう数時間前の出来事。
そろそろ日も暮れ、いつものように全く実の無い時間をすごした俺は(いや、俺だけではない。その場にいた皆がその瞬間、目を丸めた)、突如として耳に入り込んできた高らかな電子音の音源を探すべく、参考書から顔を上げた。

「誰の携帯?」

帰る準備をしていたハルヒがぽつりと呟く。控えめで、それでいてしっかり耳に届く音。比較的近くにあるようだ。
ふいに長門が立ち上がり、読んでいた本を閉じるなり、その場にしゃがみこむ。それからまるでモグラのように机の下にもぐりこんだかと思うと、右手に見慣れた携帯を持って起き上がる。

「…あら」

ハルヒが意外、とでも言うように声を上げた。こっちだって声を上げたかった。長門の手に握られているのはこいずみいつき、その人の携帯であり、この場にあってはならないものである。しかも、あいつがここに忘れていったという事実がまた、皆を驚かすのだ。あんなパーフェクトマンが、こんなケアレスミスするだなんて。体調の悪さは演技ではないらしい(もとより疑ってなんかはいなかったが)。
相変わらず鳴り続ける携帯をハルヒが手に取り、おもむろにボタンを押そうとする。

「ちょ、待て!」

「何よ」

「お前、それ、どうする気だ」

問いかけた俺にハルヒはまるでわけがわからない、とでもいうように、目を丸めた。なんだってそんな顔をされねばならんのだ、と思いつつ、ハルヒからの回答を待つ。
そうこうしているうちに音が止まった。恐らく、思うところだが、機関とやらではないだろうか。ただの勘だが、そうじゃないかという妙な確信めいたものが胸の内で広がっていった。もしハルヒに取られていたら、後々困るのはあいつだ。

「せっかく取ってあげようと思ったのに。あんたが邪魔するから」

「…プライバシーだろう」

とりあえず反論しておいて、ハルヒの手の中から携帯を奪う。「あんたこそどうする気よ」と問いかけられて、言葉を探した。ひとまずハルヒの手から奪わなければ、という妙な使命感が先行しただけで、あまりどうこうする気なんて無かったからだ。

「………とりあえず、届けに行く。無かったら、あいつも困るだろう」

無理やりひねり出した返答に、ハルヒはそれでも不自然とは思わなかったようで、それもそうねと頷いた。

「じゃあ、あんたに頼むわ。ちゃんと届けなさいよ。それから、古泉くんの様子をちゃんと見て来てよ。体調悪かったんでしょ」

机の上の鞄を持ち、こちらの肩を叩いてきた。曖昧に頷いておく。確かにあいつの体調が悪かったのは悪かったんだが、こうも度々家を訪ねるとあいつもいい加減うんざりするんじゃないのか、と思った。携帯を返しに行くだけなのに、いや、寧ろ俺は届けてあげるという極めて良心的な立場に立っているというのに、なぜこうも遠慮してしまうんだ。

ハルヒたちと別れてから、つい先日も通った道を通る。静かに黙り込んだままの携帯をポケットに突っ込んで、かわりに自分の携帯を取り出した。連絡は無い。
アスファルトの上を踏みしめながら、ふと考える。
あいつ、もしかしてストレスが溜まってるんじゃないだろうか。
どこかで聞いた話によると、ストレスが溜まりすぎて熱が出たり、体調が悪くなったりすることは別段珍しくない話だそうだ。俺はそれを聞いて、そうなのかと思いながらも自分には縁の無いことがらだろうなと思っていた。だってそうだ。基本的に、ストレスは溜まっても体調は崩すことが無い。それほどストレスがたまらない、というわけでもないと思うのに。

「…着いたか」

考えごとをしているとあまりにあっさりとあいつの家についてしまって、多少戸惑った。